ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

足利義康

あしかがよしやす

足利義康とは平安時代の武士であり、室町幕府を開いた足利氏の祖である。
目次 [非表示]

生没年:1127(大治2)年~1157(保元2)年


源義家の3男・義国の次男。兄は新田氏の祖である新田義重

正室が熱田神宮の大宮司・藤原季範の養女であり、実の娘を娶った源義朝とは相婿の関係に当たる。


生涯

父の所領である下野国足利荘を相続したことから足利を名字とした。

1142(康安元)年に鳥羽上皇が建立した安楽寿院に足利荘を寄進したことで足利荘の現地管理者である下司となる。

鳥羽上皇の後ろ盾を得た義康は西面武士として都での立身出世を果たし、検非違使蔵人に任官した。


1156(保元元)年に発生した保元の乱では後白河天皇側につき、平清盛(300騎)や源義朝(200騎)に次ぐ100騎の兵を率いて戦った。

戦後に褒賞として従五位下に叙位されるも、翌年に死去した。


概要の通り異母兄に新田(源)義重がいるが、血族で争う事が多かったこの時代では珍しく特に家督や領地で争う事もなく在京担当の義康.在地開発担当の義重と棲み分けし協調しており、後述の息子達も義康の死後しばらくは義重の保護下にあった。

死後

嫡男(三男)とされた義兼が幼かったため、庶長子の矢田義清と次男の足利義長が朝廷に仕えた。義清と義長は源頼政の乱に参加して敗走した後に源義仲に仕え、1183(寿永2)年に水島の戦いで平教経に敗れ兄弟共々討死した。

一方成長した義兼は源頼朝の挙兵に参加、功績を積んだことで上総国司や源氏一門の上級御家人である御門葉の一人となり、同じ御門葉の一族である源範頼義経らが粛清・没落していく中でも足利氏は有力御家人として生き残り、室町時代に子孫の足利尊氏室町幕府を開く原点となった。


ただ室町幕府の滅亡と足利氏の没落の後、江戸時代には小倉熊本を治める大大名となった細川忠興忠利父子、平成時代総理大臣を務めた細川護熙を輩出した細川家が義清の子孫であるのは歴史の皮肉というほかない。


関連タグ

平安時代 源氏 足利

関連記事

親記事

平安時代 へいあんじだい

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 66

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました