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生 没:文永10年(1273年)-元弘元年/元徳3年9月5日(1331年10月7日)

別 名:義観(法名)

官 位:従五位下、讃岐守

父 母:足利家時(父)、北条時茂娘(母)

 妻 :釈迦堂殿(正室、北条顕時娘)、上杉清子(側室)

子 息:高義、高氏(尊氏)高国(直義)


概要

鎌倉後期の御家人の一人で、足利氏宗家の第7代当主。祖父の代からの基本路線である、北条氏得宗家)との結び付きの強化に務め、それを通して幕府内における政治的立場や家格の維持・安定をより強固なものとしたとされる。

一方で、嫡男であった高義が若くして逝去したことで、その後も生涯に亘って家政を担わねばならなくなるなど、後継者の面では大いに不安を残す形となった。実際、貞氏没後に家督を継いだ足利高氏(尊氏)こそが、それまでの諸々の関係の一切をひっくり返す形で、倒幕の立役者の一人となったことは周知の通りである。


生涯

前半生

父・家時が14歳の時に生を受け、その家時が弘安7年(1284年)に早逝したのを受けて弱冠12歳で当主の座に就くこととなる。若年での家督相続であったため、初期の家政においては執事の高師氏・師重父子(高師直の祖父と父に当たる)の補佐を受ける格好となった。


この家時の死については自害であったことが確定しており、かつてはこの直後に発生した霜月騒動に絡んで、足利氏とも関係が深かった安達氏に連座してのものであるという見解が一般視されていた。所謂「置文伝説」(※1)の存在もまた、そうした見解を後押しする格好となっていたが、昨今では家時が自害に及んだのは別の理由――即ち「北条氏への忠節」を示すためであったとする見方が有力視されている。

というのもこの頃、執権の北条時宗は度重なる蒙古襲来に絡み、将軍の惟康親王を「源惟康」として戴くことで、かつての治承・寿永の乱での勝者たる源頼朝の再現を図り、蒙古との戦いへの勝利を祈願する動きに出ていた。この動きは、武家の間に横たわっていた「源氏将軍観」の高揚にも繋がるとともに、頼朝と同じ清和源氏の系譜に繋がる足利氏こそが、元は「宮将軍」である親王以上に将軍に相応しいとの認識までも呼び起こすに至ったと見られる。

しかしこれは同時に、「足利氏に将軍の地位を狙う野心があるのではないか」という無用な猜疑心を呼び込むものでもあり、頼氏(貞氏の祖父)、そして家時と二代に亘って北条氏との関係改善に腐心してきた(※2)彼らにとっては迷惑な風潮に他ならなかった。こうした風潮から足利氏を切り離し、なおかつ北条氏への忠節を尽くす意思を示すために家時が選択したのが、逝去して間もない北条時宗の後を追っての殉死であった・・・という訳である。


ともあれ、若くして家督を継いだ貞氏もやはり、北条氏との関係を重視する先代までの基本路線を踏襲したと見られ、同時期に執権職に就いた北条貞時(時宗の息子、貞氏にとっては烏帽子親でもあった)もまた、足利氏の「源氏嫡流」としての立場を公認する代わりに北条氏が主導する政権への協力姿勢、そして自分たちが擁立した将軍に伺候する立場の維持を足利氏に求めることで、両者間の政治的な思惑の一致を図った。

足利氏にしても、北条氏からのこの「要請」は他の源氏一門との格差を明確化させることにも繋がり歓迎すべきものであったことから、「合意形成」に至った後の貞氏は将軍・久明親王に近侍しつつ、また貞時の出家の際には自らもこれに従うなど、北条氏への徹底した協力姿勢を生涯に亘って示し続けることとなった。

前述した従来までの見解に則った場合、「北条氏に対する忍従を強いられた」とも解釈できるこの貞氏の姿勢は、むしろその立場を積極的に利用して、幕府内における政治的立場の安定と、北条得宗家に次ぐ家格の維持に繋げたというのが実情であると昨今では考えられている(※3)。

実際、嫡男の高義は得宗家の北条高時からの偏諱を受けると同時に、清和源氏の通字である「義」も引き継ぐ形となっており、当時の足利氏と北条氏の蜜月関係を象徴したものであるとも解釈されている。


(※1 置文とは即ち、足利氏の祖先に当たる源義家が「七代後の子孫に生まれ変わって天下を取る」と記したとされる願文のことで、その「七代後の子孫」に当たる家時はその宿願を果たせなかったために、こちらも「三代後の子孫に天下を取らせよ」との願文を遺して自害した・・・というものである)

(※2 これは貞氏の曾祖父に当たる足利泰氏が、幕府に無断で出家したために所領没収・閉居の処分を受けたことに因るもので、その際足利氏は幕府への謀反までも疑われるなど、厳しい立場に立たされていたとも見られている)

(※3 さらに言えば、後に次男の高氏(尊氏)が将軍家を自称して室町幕府を立ち上げる際、多くの武家がこれに従ったのもまた、この時足利氏が「源氏嫡流」として公認されていたがゆえであるとされ、(貞氏の本来の狙いとは大きく異なるものの)後の足利氏にとっての追い風となったとも言える)


後継者

正安3年(1301年)の貞時の出家、もしくは応長元年(1311年)の貞時の逝去のいずれかに伴って自らも出家に及んだ貞氏であるが、その際家督も嫡男の足利高義が継承したとされる。他方で出家の時期については未だ確定を見ておらず、また高義の元服した時期との兼ね合いなどから、貞氏の出家と高義の家督継承は必ずしも連動した動きではないとする見方もある。

しかしこの高義は、家督を継いで間もない文保元年(1317年)に早逝したようで、後に家督を継ぐこととなる貞氏の次男も未だ元服を済ませていなかったことから、隠居したはずの貞氏も家督を再承することを余儀なくされた。


もっとも、その次男が元服し高氏と称した後もなお、彼が高義に代わる後継者と目されていたかと言えば、必ずしもそうではなかったようである。

元々足利氏は、正室所生の嫡男が幼少であっても庶系の男子には家督を譲らず、直系嫡男が家督相続するまでの間、庶兄・庶伯父などが家政の代行を担ったり援助するという習わしがあった。さらに前述した北条氏との関係維持という観点から、貞氏には側室所生の庶系男子である高氏にではなく、高義の遺児である男子の成長を待ってそちらに家督を継がせる、という意思もあったと見られている。

高義の死から10年あまりを経てもなお、足利氏内部で家督継承の動きが見られなかったこと、それに高氏の通称が、本来足利氏の嫡男が名乗るべき「三郎」ではなく「又太郎」とされたことなどもまた、そうした「規定路線」に対する傍証ではないかとも考えられている。


その後も、亡き北条貞時の十三回忌法要に際して多額の費用を進上するなど、引き続き北条氏への協力姿勢を維持していた貞氏であったが、元徳3年(1331年)に59歳にて逝去。

前述した貞氏の思惑とは裏腹に、彼の死に伴って足利氏の家督を継承したのは高氏であり(※4)、その高氏の決起によって足利氏と北条氏の蜜月関係も終焉を迎えることとなるのだが、決起するに至った要因の一つに「貞氏の喪中であるにもかかわらず後醍醐天皇討伐に駆り出された」というものが挙げられているのは、ここまで触れてきた貞氏の生前の姿勢を思うと何とも皮肉な話であるとも言える。


(※4 高義の遺児のうち、長男の安芸守某については後の南北朝動乱期の折、奥州にて戦死したと伝わっている。またもう一人の遺児として、田摩御坊源淋の名が史料上からは確認できるが、こちらは貞氏の息子であるとする説もある)


関連タグ

鎌倉時代

鎌倉幕府

足利氏 足利尊氏 足利直義


北条氏 得宗

北条貞時 北条高時

北条貞顕:北条顕時の息子で第15代執権。貞氏にとっては義兄に当たる


緒形拳:1991年放送のNHK大河ドラマ太平記』における貞氏役

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