ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

近江源氏

おうみげんじ

日本の氏族。平安時代に近江国に土着し本拠とした源氏の流れを汲む一族の呼称。宇多源氏佐々木氏一族が最も著名。
目次 [非表示]

1.宇多源氏佐々木氏

宇多天皇の子孫の一族で佐々木氏が主だったことから佐々木源氏ともいう。

摂津源氏や河内源氏などを輩出した清和源氏と並ぶほど有名で武家として繁栄し鎌倉時代室町時代に掛けて代々近江ばかりか各地の守護や地頭として勢力を持つに至り一部は戦国大名化する。京極・六角・尼子など歴史ファンにはおなじみの一族を輩出した。


2.清和源氏流

満政流・満季流・義光流の三家がある。義光流は「義経二人説」で有名な山本義経を輩出している。


宇多源氏佐々木氏の概要

佐々木秀義と息子や孫たちの活躍

佐々木氏は平安時代中期に近江国蒲生郡佐々木庄に下向した宇多源氏源成頼を祖とする。成頼の玄孫佐々木秀義は源為義の娘を妻にするなど河内源氏との繋がりを深めた。

秀義は保元元年(1156年)に発生した保元の乱後白河天皇方の源義朝に属して勝利したが、続く平治元年(1159年)の平治の乱で義朝に属し戦うも敗れたため近江佐々木荘を追われる。伯母の夫(または従兄)の藤原秀衡を頼り奥州へ向かう途中、武蔵国の渋谷重国に引き留められ以後約20年間渋谷荘に籠居した。

治承4年(1180年)、源頼朝が伊豆で平家打倒の挙兵をした時、息子の定綱・経高・盛綱・高綱らと共に頼朝に従い手柄を立て佐々木荘を取り戻した。なお秀義自身は元暦元年(1184年)に発生した「第一次三日平氏の乱」の鎮圧に赴いた際、甲賀で戦死している。

平家滅亡後、長男の定綱は近江、長門、石見、隠岐の守護に任じられた。定綱の長男広綱は承久の乱で後鳥羽上皇方に付き敗れて処刑され、その後は四男信綱が佐々木氏を継いだ。信綱の子らは四家に分かれ六角氏京極氏大原氏高島氏となった。

次男の経高は淡路・阿波・土佐守護に任じられた。しかし承久の乱では、甥の広綱と共に京方に付くも鎌倉方の北条泰時に敗れ長男高重共々自害した。

三男の盛綱は越後加地荘と備瀬児島荘を拝領した。「梶原景時の変」後、越後平氏城氏の残党が起こした建仁の乱では坂額御前と戦っている。長男の加地信実は加地氏の祖となり承久の乱で手柄を立て越後と備前の守護職を獲得した。

宇治川の戦いにおける梶原景季との先陣争いで知られる四男の高綱は備前と長門の守護に任じられた。高綱の隠居出家後、嫡子重綱が戦死し次男光綱が弟義清の猶子になったこともあり弟の義清系に事実上吸収された。

五男の義清は大庭景親の娘婿だったため最初は平家方だったがのち頼朝に下った。出雲・隠岐の両国守護職に任じられた際、出雲国に下向し土着した。義清の系統は出雲源氏と言われる。


佐々木氏一族

佐々木氏

宇多源氏流近江源氏の宗家だがのち六角氏が宗家になった。通字は高の字を用いた。

家紋は基本的に四角形に穴の開いたものを四つ並べた「四ツ目結」と呼ばれる家紋を用いる。これは元久2年(1205年)に発生した牧氏事件で佐々木盛綱・広綱・信綱が京で平賀朝雅北条時政と牧の方の娘婿)を討った功で後鳥羽上皇から賜った紋である。ただし義清系は四ツ目結ではなく花輪違を用いる。

出雲源氏を含む先の五家やその分家は各地(主に出雲、近江)で力を誇った。

著名人物は先述の佐々木秀義に定綱・経高・盛綱・高綱・義清の五兄弟、定綱の子孫にバサラ大名で有名な佐々木高氏(道誉)がいる。


主な分家

京極氏:よく勘違いされるが佐々木氏流の本家ではない(有名すぎるせいもあるが)

 近江を支配下とし戦国時代に家臣の浅井亮政(長政の祖父)に下剋上されるも復活。小浜藩と宮津藩の初代藩主である京極高次・高知兄弟は近江京極の出身。出雲守護として下向した一族もいる。江戸時代において高次流は度々転封され高知流も宗家こそ改易されたが最終的に高次流と高知流分家は無事明治を迎えられた。

  • 尼子氏:京極家の分家で元出雲守護代の家柄

 京極高久が領地の名前から付けたもの。※一説に祖父の道誉が与えたとされる。近江流と出雲流がいるが戦国時代の経久や晴久は出雲流である。


六角氏:佐々木氏に代わる宗家で近江守護

室町幕府が成立すると、同族である京極氏の京極高氏(佐々木道誉)が近江守護に任じられたが後に六角氏頼が守護に任じられ、幕府と対立した一時期を除いて近江一国の守護の地位を占めた。だが、京極氏は出雲や飛騨の守護に任ぜられ、近江国内でも守護不入(守護である六角氏の支配を受けない特権)が認められた。室町時代に入ると六角氏と京極氏は敵対し、近江の覇権をめぐって争ったが定頼の代に最盛期を迎える。だが子の義賢(承禎)や孫の義治の代に織田信長に滅ぼされた。


高島氏:ゆっくりとではあるが勢力を拡大して行った一族。だが、六角が衰退すると同時に衰退してしまった。

  • 朽木氏:高島氏分家。戦国末期に元綱を輩出。江戸時代は交代寄合となり幕末まで続いた。

塩冶氏:「えんや」とよむ。出雲源氏の主流であり、鎌倉時代は出雲守護を務めたが高貞の時、後醍醐天皇のち足利尊氏に従う。しかし高貞は南朝方への寝返りを疑われ足利直義の命令で謀反人として討伐され嫡流は滅亡。支流は他家の家臣となったりして生き延びた。のち尼子経久の三男興久が家名を継ぎ再興するも父に謀反して滅亡した。

  • 南条氏:塩冶氏分家。伯耆国の国人。諸説はあるものの高貞の次男貞宗が今の鳥取県湯梨浜町に土着したことで興った一族。山名氏に仕え伯耆守護代になった時期もあったが応仁の乱以後はことごとく対立していた。宗勝の代に大内・尼子を経て毛利元就の傘下に入るが元続の代になり織田信長に寝返る。豊臣時代は伯耆東3郡を領有するが子の元忠は「関ヶ原の戦い」で西軍に付き浪人。大坂の陣勃発後は大坂城に入城するも徳川方への内通が発覚し切腹し南条宗家は滅亡。分家は各地に離散したとされる。

加地氏:鎌倉時代から戦国時代に掛けて越後北部の阿賀野川流域北部に割拠した国人豪族集団「揚北衆」佐々木党の本家。他の揚北衆同様に長尾氏(上杉氏)が戦国大名化した際に配下に組み込まれた。上杉謙信死後、御館の乱を経て同族の新発田重家が起こした乱に加担し加地宗家は上杉景勝に滅ぼされ没落した。ただし景勝方に付いた分家の竹俣氏は生き延び江戸時代において米沢藩の上級家臣として遇されている。

  • 新発田氏:加地氏分家。先述の新発田重家の乱で滅亡。分家に重家が若い時に継いでいた五十公野氏や長沢氏がある。

佐々木氏の主な後裔

佐々木道誉

尼子経久尼子晴久

尼子国久尼子勝久

山中幸盛尼子氏の分家でもある)

黒田孝高黒田長政

京極高吉京極高次

六角義賢

野村松綱

佐々成政

木村重成

新発田重家

横田高松

今井宗久

木食応其

角倉了以

松本助持

森尚謙

辻月丹

曲直瀬道三

杉田玄白

間宮林蔵

箕作省吾

乃木希典

大山巌

前原一誠

佐々木蔵之助

高柳助八

佐々木惣十

      等々


清和源氏流近江源氏の概要

  • 満政流:源経基の次男満政の子孫。戦国時代に足利義輝義昭に仕えた和田惟政を輩出。
  • 満季流:経基の三男満季の子孫。
  • 義光流:経基の長男満仲の曾孫で河内源氏三代目棟梁・源義家の次弟義光を祖とする常陸源氏佐竹氏の傍流。義光の長男義業の次男佐竹義定が祖父義光の私領を継承し常陸国から近江国山本に本拠を移し姓を山本とした。義定の子である義経・柏木義兼兄弟は治承4年(1180年)に美濃源氏と連携し平家打倒の挙兵をするが平知盛らに敗北し本拠地の山本山城を落とされ逃亡。義経・義兼兄弟は最終的に源義仲を頼るが木曾滅亡後の彼らの動向は不明。尚、山本義経の正式な名乗りは「源義経」だが、彼の息子たちは宇治川で源頼朝の弟の方の源義経と戦っている。

外部リンク

近江源氏

関連記事

親記事

源氏 げんじ

子記事

兄弟記事

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました