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近藤勇

こんどういさみ

近藤勇(1834〜1868)とは、幕末の人物の一人。新撰組局長。
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概要

江戸時代末期(幕末)の武士新選組の局長として知られる人物。
もともとは多摩の農家の生まれであるが、当時通っていた天然理心流の道場・試衛館にて盗人を退治した活躍が認められ、師である近藤周助(近藤周斎)の養子となる。

文久3年(1863年)、同門の土方歳三沖田総司らとともに、14代将軍徳川家茂の警護部隊「浪士組」に参加し上洛。その後、浪士たちの江戸帰還を提案されるが、近藤ら試衛館一派は水戸郷士・芹沢鴨らとともに京に残留。京都守護職を務める会津藩預かりの治安組織「壬生浪士組(後の新撰組)」の隊長(呼称は局長)となる。結成当初は芹沢とともに局長二名という二派閥体制をとっていたが、蛮行の目立つ芹沢ら水戸派浪士たちが一掃(粛清)されてからは近藤派を中心とした体制がとられるようになる。

戊辰戦争では江戸に戻り、「甲陽鎮撫隊」を再編。同隊の隊長として甲州へ出兵するが敗走。
流山にて屯集するが新政府軍に包囲され、自らを犠牲に政府軍本営に出頭し処刑斬首)された。

逸話

名前

生誕から没年まで何度も改名しており、後年に名乗った偽名を含めば5〜6通りはある。
農民時代の宮川勝五郎から始まり、周助の実家である嶋崎家に養子に入ってからは嶋崎勝太に改名。
天然理心流宗家を正式に襲名した頃からは嶋崎勇近藤勇と名乗った。
また、新撰組が「甲陽鎮撫隊」と名を改めた際には自身を大久保大和守剛と称した。

武人好き

幼少の頃から実父・久次郎から『三国志』や『水滸伝』などを読み聞かされた影響からか、武人武士に強い憧れを抱いていたといわれる。その例として、新撰組の隊服である段だら模様の羽織袴は『忠臣蔵』の演劇での赤穂浪士たちの装束を真似たとされる他、口が大きく拳骨を丸ごとに入れるという特技を持っていたが、これも戦国武将加藤清正の特技にあやかっていたとのこと。

愛刀家

刀剣の話が好きで暇さえあればそれ絡みの話をしていた。愛刀はかの銘刀「虎徹」であったとされるが、偽銘だったともいわれている。
部下に剣聖レベルの強者が多かったせいで霞みがちだが、新選組の局長だけあって実力は非常に高い。かの池田屋事件でも虎徹を使用し、新撰組側で唯一人得物を損耗させなかった。彼の虎徹は上記のように偽物説があるため、実際のところは彼自身の人外な技量と継戦能力の賜物なのだが、当の本人は本物だと固く信じていたので「虎徹だから無事だった」と周囲に語り、養父宛の手紙にもほぼ同じ内容の一文を記している。

剣術

近藤を始め、新撰組が使用していた流派である天然理心流は、相打ちを極意とする剣術とされ、「死を覚悟する」「死を選択する」武士道の本質を持っているとされる。
それを感じられる逸話があり、西洋医学者の松本良順は、攘夷派に命を狙われ、近藤の所へ訪ねてきたことがあり、近藤に対して「見苦しくないように斬られるにはどうすればいいか」と相談した良順に対し、以下のように答えたとされている。

近藤
「こちらが大剣をふりかざしたまま、両眼を閉じます」
良順
「なに目を閉じる。それでは相手が見えなくなっちまうではねえかよ」
近藤
「一向にお気になさることはありません。やがてからだの何処かが冷やりといたしましょう。その瞬間に大剣を真っ向に振り落とします。自分も斬られましょうが相手も斬ることができます。」
良順
「確かに侍がやりあう斬りあいでの心得はわかったが、近藤君、俺等は無腰だよ。それで狙われた時は、いったいどうするね。」
近藤
「相手の目から、自分の目をそらさずにすたすたと前に進まれたがよろしい。具合よく斬られること間違いございません」
良順
「やれやれ」

この逸話は良順の息子が語ったとされており、ある程度の創作が入っていると思われ、以下のほうが実話に近いとされている。

良順
「近藤君、敵に囲まれたときはどうすれば活路を開くことができるか」
近藤
「まあ死ぬのですな。生きることが念頭にあってはだめです。一方をうかがって、猛然と捨て身に斬り込むのです。そこにだけ命を救うところがあります」

恥にならないようにするには、「死を覚悟する」としており、これは葉隠にもある「生を輝かせるための覚悟」である。

剣術に関する逸話はもう1つあり、竹刀を使った試合では滅法弱かったが、真剣に近い木刀を使わせると恐ろしく強かったという逸話があるが、これは彼に限ったことではなく天然理心流の使い手が皆そうであったからとも言われている。


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幼少時代



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