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近鉄パールス

きんてつぱーるす

近鉄パールスは、1950年~1958年までの9年間存在した球団。大阪近鉄バファローズの発足時の名称である。
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歴史

チーム名の「パールス」(Pearls)は「真珠」の意味で、伊勢湾の真珠養殖に由来する。


球団初年度は最下位だった。

1951年は6位の東急と0.5ゲーム差で2年連続の最下位。

108試合制の1952年は勝率.278と3割にも満たず3年連続最下位で藤田省三は辞任。なお、この年は最下位が決まったのが8月20日であった。シーズン最下位が8月に決まった例は、以後2005年(創設1年目の東北楽天ゴールデンイーグルス)まで現れなかった。

芥田武夫を新監督に迎えた1953年は、結果的には4年連続で最下位に沈むも、前年から大きく借金を減らした。


高橋ユニオンズが加わり8球団となった1954年は、首位の西鉄に16ゲーム離されながらも8球団中4位で、球団史上初のAクラスとシーズン勝ち越しを決めた。

しかし打線はチーム本塁打数がリーグ最下位であるなど極端な貧打であり、1955年は8球団中5位だったものの上位4チームには20ゲーム以上離された。(4位の阪急とはちょうど20ゲーム差。)

1956年も西鉄・南海毎日・阪急の上位4球団の牙城を崩せず2年連続の5位。


高橋ユニオンズが大映スターズと合併し大映ユニオンズとなった1957年は7球団中6位。シーズン途中で芥田が休養し、加藤久幸が代行として指揮を執った。なお、この年最下位になった大映は毎日と合併し、大毎オリオンズとなり、以後は6球団となった。

6球団となった1958年はユニフォームをリニューアルして臨んだが、開幕直後から最下位を独走。あわや100敗目前、勝率も.238、首位の西鉄に50ゲーム近くも離されるなど惨憺たる成績で5年ぶりの最下位で加藤は無念の辞任。

シーズン終了後、巨人から千葉茂を招聘。千葉の現役時代の愛称猛牛からチーム名を近鉄バファローへと改め再出発を図ることとなった。


順位勝敗首位とのゲーム差監督
1950年7位44勝72敗4分37.5藤田省三
1951年7位37勝56敗5分33.5藤田省三
1952年7位30勝78敗0分40.0藤田省三→芥田武夫
1953年7位48勝69敗3分22.0芥田武夫
1954年4位74勝63敗3分16.0芥田武夫
1955年5位60勝80敗2分39.0芥田武夫
1956年5位68勝82敗4分29.5芥田武夫
1957年6位44勝82敗6分38.5芥田武夫→加藤久幸
1958年6位29勝97敗4分49.5加藤久幸

※1050年~1953年と1957年が7球団、1954年~1956年が8球団、1958年以降6球団。


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