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長坂釣閑斎

ながさかちょうかんさい

長坂釣閑斎とは戦国時代の武将で、武田家の有力な家臣である。永世10(1513)年〜天正10(1582)年。
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概要

甲斐武田家の重臣であり足軽大将。小笠原家の庶流の長坂家の嫡男として1513年に生まれる。幼名は不明だが、元服後は従来、光堅(みつかた)と名乗ったとされてきた。しかし、近年では、光堅ではなく武田信虎の偏諱を受け虎房(とらふさ)と名乗ったとされている。また紛らわしいことに次男・昌常の養父である今福友清の出家名が釣閑斎と同音かつ一字違いの『長閑斎』だった為、両者が混同された結果、近年までの釣閑斎は長坂長閑斎という表記になっている場合がある。


資料に名前が出てくるのは信虎の嫡子・晴信(武田信玄)が武田家の家督を継いだ1541年前後である。始めは晴信の勘気を蒙り失脚していたが、1542年に晴信と高遠頼継が共同攻め滅ぼした諏訪氏の領土配分を巡り激突した宮川の合戦において、郎党共に自ら槍や刀を取って前線に出てた戦い、頼継の弟である高遠頼宗を一騎討ちをして討ち取るという華々しい手柄を立てた虎房は、武田信繁の口添えもあって晴信の勘気も解けて、復権を果たす。

勇猛な足軽大将でありながら高い行政能力を持ち、晴信からの信頼を勝ち取ったようで、晴信の守役で武田筆頭の重臣板垣信方の補佐をし、諏訪郡代だった信方と行動共にしていた。36歳だった1548年、村上義清との上田原の戦いで信方が討死すると、彼の務めていた諏訪郡代の地位を引き続いだ。


1550年代前半は、どこの城主かは不明だが、諸角虎定真田幸隆らと北信濃で村上氏についた豪族や国人の調略を担当していたと言われている。また、三枝虎吉ら共に奉行人としての文書の発行もしている。

1552年には嫡男昌国の元に幸隆の娘が嫁いでいる。

1557年には諸角らと共に川中島地域の探索を晴信に命じられている。

1560年に晴信が出家し「信玄」と名乗ると、虎房も出家し「釣閑斎光堅(ちょうかんさいこうけん)」と名乗る。この時に釣閑斎は足軽大将の地位を嫡男昌国に譲り、自身は信玄の側近的地位についたとされる。


1560年代は、詳しい活動は不明だが、釣閑斎と思われる人物が武田家において、内政を担当していた。また、上杉政虎(謙信)との川中島の戦い長野業正・業盛父子の箕輪城攻めと言った合戦に出陣していたらしい。

1565年、信玄の嫡男の武田義信が守役飯富虎昌謀反を起こした際には、甥の長坂勝繁が謀反に加担するも、山県昌景と共に信玄に密告したとも言われ勝繁は虎昌と共に処刑されている。この時、釣閑斎と昌国は勝繁謀反の責任を取る形で引退したが、翌年にはあっさりと親子揃って復権し昇格している。義信の謀反により、信玄の四男武田勝頼が武田家の跡継ぎとなると、勝頼に気に入りの家臣となる。


1573年に信玄が病死すると、武田家の重臣として、跡部勝資共に勝頼を内政や外交に関する補佐を行った。釣閑斎と勝資は取次衆という役職につき、甲府に在中して、各武田の城代と勝頼の連絡伝達の中継ぎ役を担い、一定の決定権を持っていたようである。なお、勝頼を疎む重臣の内藤昌豊馬場信春とは激しく対立したと伝えられる。

そして、明くる年の1575年に長篠の合戦が起き、山県・内藤・馬場を始め真田信綱土屋昌続らの重臣たちが討死したため、事実上の武田家筆頭家老のような立場に置かれることになる。

その後も長篠の敗戦を立て直し、勝頼を善く補佐するも御館の乱上杉景虎が滅亡する一因になり景虎の兄・北条氏政と対立。

1581年には高天神城が徳川家康によって奪われてしまい、翌1582年の織田軍による甲州征伐の際に、勝頼に最期まで付き従い、天目山の合戦で討死したとも、織田軍の追撃が急過ぎて勝頼と合流することが出来ずに、殺害あるいは処刑されたと伝わる。


人物像

釣閑斎虎房は一般的に、主君である勝頼におべっかを使い、自分の出世や地位の為なら、ありもしない讒言で周りの人間を陥れ、武田を見限った奸臣としてのイメージが強い。高坂昌信の証言を元に書き出したとされる武田家の資料の甲陽軍鑑には、「口だけしか動かさない男」として信玄には重用されていなかったと書かれており、また甲斐武田家の滅亡時を記録したとされる甲乱記には、釣閑斎は勝頼を見限り逃げたが織田方に捕まり処刑されたと書かれている。

しかし、甲陽軍鑑は資料に信憑性が怪しい部分も多く後世多くの改竄をされた部分もあり、また勝頼やその側近たちを悪く言っている部分もある為、釣閑斎も軍鑑による風評被害を受けた可能性が高い。釣閑斎の最期に関して、織田家家臣の太田牛一が書いた信長公記では、天目山の合戦で討ち死にしたとされている。

他の釣閑斎の悪行と伝えてられている逸話も見ていくと、

  • 長篠の戦いの時に、勝頼に織田軍との合戦を主張し、反対する山県らの意見を退けた。

→釣閑斎が決戦を主張した理由は、決戦をせずに撤退すれば『武田家は織田家を恐れて逃げた』と思われ、国人たちが武田を見限り三河北部や遠江の武田領を失う可能性があったと言われており、なんの考えもなしに決戦を主張した訳ではない。

  • 身分の低い浪人の身であるのに関わらず、勝頼を甘言で惑わして、出世した。

→長坂家は信濃源氏小笠原家の血筋を引く格式の高い家柄であり、少なくとも釣閑斎の祖父の代から武田家に使える重臣の家であり身分の低い浪人ではない。

  • 御館の乱の際に上杉景勝に付いた重臣斎藤朝信を通じて、賄賂して金5万両を受け取った。

→御館の乱の際に、武田家が交渉を担当したのは、跡部勝資武田信豊であり、釣閑斎には賄賂を受け取る余地はない。


などの多くの悪行と伝えられているが、どれもこれも根拠のないものであり、実際の人物像と大きく欠け離れている。


研究

従来は信玄からは冷遇されており、勝頼の代で圧倒的な権力を握った人物とされていたがそんなことはなかったとみなすのが有力な見解と言われている。そもそも信玄の乳兄弟という親しい立場があり、学問の造詣の深い信玄にとって高い教養を持った釣閑斎は非常に馬があったとされている。

彼の教養の高さは大名や寺社との取次を多く担当しており、信玄の軍医を務めている点窺うことが出来るとされる。



一族

  • 長坂昌国 1532?〜1582

釣閑斎の嫡男並びに長男。筑後守。

奥近習六人衆というエリート派閥のメンバーの1人。

多くの外交や内政に関わる文章が発見されている。

妻は真田幸隆の娘。

天目山の戦いで勝頼共に討死。


  • 今福昌常 1540年頃〜?

次男。今福長閑斎友清の元に養子入り。

近年では、今福友清の実子で長坂虎房との繋がりは無かったとも言われている。

武田滅亡後も生き残り、徳川家康に使える。

天正壬午の乱では、旧武田家家臣の多くを家康方にする交渉や調略で成果を上げた


  • 長坂英信 ?〜1575

三男。長篠の戦いで討死したこと以外の情報がない。

それ故に存在そのものを疑う説もある。


  • 娘(御宿友綱室)?~?

  • 長坂勝繁 ?〜1565

釣閑斎の甥もしくは実子。通称源五郎。

義信事件に加担して死罪となった。

なお、近年まで昌国と混同されていた。


創作

武田勝頼(小説) 著・新田次郎

長坂長閑斎で表記。

甲陽軍鑑を元にしているので、『口だけは達者な男』として信玄には嫌われていた。勝頼への忠誠心は本物だがKYな部分もあり山県や跡部らを怒らせたり困らせたりしてしまう。

穴山梅雪が長閑斎(及び勝頼)を馬鹿にした、という話を聞いた長閑斎に仕えていた家来たちが梅雪を襲撃すると言った人望があるという側面が描かれており、当時としてはなかなか肯定的な作品だった。


武田信玄(小説) 著・新田次郎

こちらではあまり登場しない。

・武田義信の祝言の時に今川家と武田家の足軽がいざこざを起こしたことを信玄に調査を命じられる。

・諸角虎定と跡部勝資と共に、『上杉軍と戦い、出方を見る為にわざと負けろ』と命令される。

位で名前はあまり出て来ない


表裏卑怯の者 著・武川祐

真田昌輝を主人公とする小説において、器の狭い老害的な人物として描かれ、高天神城攻略の軍議において、昌輝と激しく口論になり、昌輝に「閑(暇)な老人は広い駿河の海ではなく、甲府の小さな池で釣り糸を垂れているのがお似合いですな」と出家名と自身の器をディスられて、マジギレした。



戦国大戦

武田家の1コストの武力1、統率5の弓隊として参戦。

特技は伏兵である。

長坂長閑斎表記で、解説テキストも奸臣としての記述。

口も悪く、台詞のほとんどに「クズ」という言葉を言っている。

イラストの見た目が白髪の老人なのに対して、グラフィックこそは白髪のイケメンで、しかもかなり若返っている。

(まぁ、戦国大戦ではよくあることだが)

弓という遠距離攻撃の兵種と武力1と低い為、基本的に低コストで採用出来る伏兵枠か独自性の高い計略を見込んで使われることが多い。

計略は『愚かな進言』。士気4使用で味方で1番武力の高い武将の統率を低下させ、武力を著しく上げるというもの。投げ計略では1番武力が上昇する。

その為主な使い方は武力低下の妨害計略を受けた味方を支援するあるいは味方が攻城が出来そうな時に使用し攻城ダメージを上げるという使い方が多い。また、統率が極端に低い加藤段蔵望月千代女(信長の忍び)とは相性が良い。



なお、群雄伝の活躍を見るとそこまで佞臣とは言えないだろう。


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