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長野業正

ながのなりまさ

16世紀に上野国で活躍した戦国大名。上野国へ進出する後北条氏や武田氏への抵抗を続けた。
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概要

長野業正(1491年/1499年~1561年)


西上野を治める豪族・長野氏の当主。「業政」と呼ばれる事もあるが、同時代の資料においてはもっぱら「信濃守」と記されており、業正(業政)が実名であるかは未だ定かではない。上野国の要衝・箕輪城を本拠とする長野氏は、平安期の貴族・歌人の在原業平の後裔を称し、関東の名門・山内上杉氏に従属する一方で、「箕輪衆」と呼ばれる周囲の豪族・国人のまとめ役も務めていた。


主家・山内上杉氏を破り関東全域に版図拡大を目論む後北条氏や、信濃を経て上野にも食指を伸ばしつつあった甲斐武田氏に対し、箕輪衆を糾合して抵抗を続け、自身も後世「上州の黄班」と称されるほどの猛将として大いに活躍した。その武勇の前に、武田信玄をして「業正存命の内は上州に手は出せぬ」と嘆かせたと伝えられる。


軍記物などの創作では、主君・上杉憲政が越後に逃れた後も主家に義理を立て続け、憲政を奉じて長尾景虎が関東に攻め入るまで、西上野を守り切った忠臣として語られる事が多い。しかし実際には再度帰参したとはいえ、後述の通り山内上杉氏の傘下から離脱した事もあるなど、近年の研究から前述したような忠臣のイメージに対し疑問も呈されつつある。


生涯

山内上杉氏家臣として

延徳3年(1491年)、もしくは明応8年(1499年)に誕生。父親に関しては長野憲業、もしくは同族の方業であるとも伝わるが、長野氏の系譜については確実と言える系譜が伝わっておらず、業正の出生・前半生についても未だ定かでない部分が多く見られる。

主君・上杉憲政が家督と関東管領職を巡って上杉憲寛(足利晴直)と抗争に及んでいた頃、業正は同じ山内上杉氏の家臣でありながら主家に反抗していた白井長尾氏に攻勢をかける一方、婚姻関係を通じて同家への影響力を強めており、やがて同家当主・長尾景誠の暗殺を機に白井長尾氏の実権を掌握、山内上杉家中での立場を向上させていった。

また信濃の豪族・海野棟綱の要請で憲政が信濃へ派兵した際には、その軍勢の指揮に当たった事もある。この当時、海野氏の一族として棟綱らと共に業正の庇護下にあったのが、後に武田氏の家臣として名を馳せる事となる真田幸隆であった。


この当時、山内上杉氏は相模を本拠に急速に勢力を拡大する後北条氏と戦っていたものの、領国の武蔵から徐々に駆逐されていくなど劣勢著しい状況にあった。起死回生を狙って周辺勢力を糾合し臨んだ河越夜戦でも大敗を喫し、この時業正は息子・吉業を失っている。

この敗戦を経て後北条氏の圧迫が増す一方、北信濃の村上氏と組んで勢力回復を狙う憲政であったが、天文16年(1547年)の小田井原の戦いで関東管領軍は武田晴信(信玄)の軍に惨敗。業正はこの戦いには参加していなかったが、出兵に先んじて主君・憲政を諌めたものの聞き入れられなかった事が伝わっている。

こうした意見の相違に加え、武田氏からの内応の誘いも受けていた事もあり、業正と憲政の関係は微妙なものとなっていった。そして天文21年(1552年)、武蔵国内の最後の拠点である御嶽城の陥落を機に、業正は西上野の諸将と共に山内上杉氏の傘下より離脱。これが憲政の馬廻衆の離反、ひいては本拠・平井城からの退去という事態をも招く事となる。


独立勢力として

武蔵にまで版図を広げ更に力を増した後北条氏の脅威に、独立した小大名として真正面からぶつかり合うことを強いられた業正だったが、長野氏を取り巻く状況は更に悪化の一途を辿っていく。後北条氏は上野国南部の長尾・旧上杉方の諸勢力を次々と従属させ、更には国境を接する駿河の今川氏・甲斐の武田氏とも結託、戦国最強の軍事同盟と名高い甲相駿三国同盟を締結。これにより、長野氏は南の後北条、西の武田と強大な勢力の狭間に立たされる格好となった。

しかし、長野氏も越後の長尾氏から支援を受けつつ、同じく後北条氏の脅威に晒されていた宇都宮氏・佐竹氏・里見氏などの他の関東諸勢力との連携を強化。また領内においても、箕輪衆との婚姻関係によってさらなる結束の強化を図るなど、後北条氏を始めとする諸勢力に対しあくまでも徹底抗戦の構えを見せた。


永禄3年(1560年)、越後の長尾景虎が業正の旧主君・憲政を奉じて関東へと進軍すると、業正も白井長尾氏らと共にいち早く長尾軍に馳せ参じ、その後も景虎による小田原城包囲戦に従軍、後北条氏と戦ったとされる。一方、同時期には武田氏による西上野侵攻も始まりつつあった。既に同年には西上野の安中氏が武田氏からの攻撃を受けており、業正は安中氏や他の勢力と組んで武田氏と対抗している。

なお、江戸期以降に成立した軍記物に拠れば、弘治3年(1557年)に武田氏が西上野に進軍した折、業正は箕輪衆を始め国人たちを糾合して2万の大軍を編成。野戦でこそ武田軍に勝てなかったものの、業正自身が殿軍を務めて武田軍の追撃を退け、さらに籠城のみならず夜討ち・朝駆けをもって6度に亘る侵攻を防いだと伝えられている。

もっとも前述の通り、西上野侵攻の開始は永禄年間に入ってからの事であるという事が、近年の学術研究の進展により明らかにされつつあり、また上記の武田軍に対する活躍ぶりについても、同時代の資料で裏付けられたものではない事にも留意されたい。この時期に洪水で壊れた長純寺を現代の高崎市に移設。箕輪衆の結束を強めている。


武名を轟かせた業正も寄る年波と病には勝てず、永禄4年(1561年)に死去。享年は71もしくは63、また死去した日時についても6月21日、もしくは11月22日の二通りが伝わっている。

長野氏の家督は次男の業盛が継ぎ、父に劣らぬ武勇と意欲で箕輪衆を率いて戦うが、川中島の戦いが一段落し激しさを増した武田軍の猛攻の前に、業盛も衆寡敵せず自害し箕輪城は陥落。戦国大名としての長野氏もここに滅亡の時を迎えたが、業盛の子息や甥たちが落ち延びており、このうち長野伝蔵(業実)は後に箕輪を領した井伊直政に仕え、彦根藩の次席家老を務めたとされる。


上泉信綱との関係

業正の配下には、後に新陰流の創始者となる上泉秀綱(後に上泉信綱)がいた。

希代の武将・兵法家でもあった信綱は、業正の下『長野十六槍』の一人に数えられ、『上野国一本槍』の異名をとり、業正の死後は子の業盛に使えた。

1566年、箕輪城の戦いで長野氏が滅亡すると武田信玄が取り立てようとしたが、兼ねてよりの悲願だった剣の道に生きたいと断り、信玄から「信」の字を賜って信綱と改名し、弟子たちと共に修行の旅に立った(「新編高崎市史」による)。


各メディアでの長野業正

信長の野望シリーズ

武将風雲録より初登場。戦闘能力に関しては申し分はなく、近年のシナリオでは大名となってたりする。ただ寿命が長くはないので難易度は普通。また天道では河越夜戦イベントもあり、選択肢によっては上杉憲政が行方不明になるが業正が当主を継ぐ展開もある。


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