生涯
天文17年(1548年)、長野業正の子として生まれる。兄であり、本来は長野家を継ぐべきであった吉業は河越夜戦で戦死している。
永禄4年(1561年)に父が病没すると、業盛は14歳の若さで家督を継ぎ、箕輪城主となる。
業盛も父に劣らず武勇に優れていたと言われる。しかし、武田軍を何度も撃退した業正の死は、箕輪衆にとっては大きな痛手であった。
業正の死を知った武田信玄は、箕輪城攻略を本格化させ、倉賀野、安中、松井田など長野方の重要な城を切り崩し、箕輪城を孤立させる作戦に出た。やがて、支城からの援軍もなくなり、箕輪勢は攻め寄せる武田軍3万5000人に対し、わずかに1500人で抗戦。
城主業盛はよく防戦したが、ついに永禄9年(1566)9月、武田軍の猛攻のなか、城内御前曲輪の持仏堂で一族とともに自害したと伝えられている。享年19歳。
辞世の句として「春風に 梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る箕輪の山里」という一首が伝わっている。