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この名前の人物は複数存在する。

なおこの項目では一番上の人物に関し説明を行う。

解説

阿部信行( あべ のぶゆき )は、日本陸軍軍人政治家明治8年石川県生まれ。昭和28年死去。

軍人時代

旧制第四高等学校入学後、陸軍士官学校入学のため退学砲兵将校となり、その後陸軍大学校19期を優秀な成績で出る、その後台湾軍司令官などを経て大将となり、昭和11年予備役編入。

総理大臣

昭和14年平沼内閣ドイツソ連独ソ不可侵条約を締結されたことを受け崩壊、後任に適当な人間がなかったため内閣総理大臣に就任。初期には外務大臣を兼任している。日中戦争早期決着、協調外交などの穏健政策をとろうとしたものの軍部の支持を得られず、さらに米価の不安定の鎮圧失敗もあり国民の人気を失い、わずか5か月で内閣総辞職に追い込まれた。

その後

政治家としての活動は続けており、のちに大政翼賛会となる翼賛選挙の後者を決める団体であった翼賛政治体制協議会の総裁、院内会派である翼賛政治会の総裁、昭和17年から昭和21年まで貴族院勅選議員、また昭和19年から敗戦後まで朝鮮総督となっている。

戦後

戦後、A級戦犯容疑で逮捕、拘留され起訴されると思われていたが、極東国際軍事裁判( 東京裁判 )開廷直前になって突然不起訴となったと言われており、釈放後、公職追放となり、解除後まもなく亡くなった。

そのほか

  • 士官学校の同期には陸軍大将となり、上海派遣軍司令官となった松井石根などがいる
  • 陸大同期には陸軍大臣や文部大臣を歴任した荒木貞夫や関東軍司令となる本庄繁、陸軍大将となる松木直亮などがいる
  • 日露戦争やシベリア出兵に参加したものの、武功のあった陸海軍の軍人および軍属に与えられた金鵄勲章を与えられずに大将となった。これは大日本帝国陸軍初のことであり、そののちも3人しかそのような事例は発生していない
  • 内閣総理大臣となる際も別の人に取り違えられるなど、一般的には無名の存在であった
  • 「野戦の将軍ではなくて処世の将軍」と呼ばれることがあったとされる。これは陸軍次官時代に、当時陸相だった宇垣一成大将の派閥に属していたにもかかわらず、宇垣が失脚するといち早く離反し、反対閥の東条英機の元へ走るなど、気を見るに敏な人物とみなされていたことが原因である。
  • 戦犯として起訴された要因としては「翼賛政治体制協議会および翼賛政治会の総裁」であったと思われる
  • 不起訴の理由としては「言動上起訴しても有罪に持ち込めない」と判断されたとも「ソ連の命令により関東軍総司令官であった梅津美治郎と駐ソ大使であった重光葵の起訴を迫ったため代わりに外された」ともいわれる

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参照

wikipedia:同項目阿部信行(曖昧さ回避)

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