少弐家臣としての活躍
1454年、龍造寺康家の5男として誕生した。当初、家兼本人は分家の水ヶ江龍造寺家を興していたが、兄の本家である村中龍造寺家が衰退すると家兼が補佐することとなった。
だが、家兼は武勇かつ智勇に優れていた為に何と本家の実権を掌握するだけではなく、主家に当たる少弐氏の筆頭家臣にまで上り詰めた。
1530年、大内義隆が筑前守護代・杉興運を総大将として少弐攻めを行った。室町時代の少弐家と大内家は血で血を洗う抗争を繰り広げ互いに当主が戦死していた。大内は盛見だけだが少弐は満貞・資嗣・教頼と当主が次々戦死していた。そして当時の当主・少弐資元(頼忠)の父である政資と資元の長兄・高経もまた父共々大内義興に討たれていた。
家兼は主君を救援すべく田手畷に出陣。また同じく少弐家臣である馬場頼周や鍋島清久(直茂の祖父)も加勢して杉興運率いる討伐勢を撃破し、大内軍を撤退に追い込んだ。
資元を見捨てる
その実力を認めた大内義隆(義興の子)は家兼を調略し、大内家に寝返らせる様に仕向けた。この結果、1534年に大内勢が再び攻め寄せると家兼は主君・資元を見捨てた。
見捨てられた資元は2年後の1536年に自刃し、家兼は「主君を見捨てた裏切り者」と罵られる様になるが、その後に資元の子である少弐冬尚が17代目当主となると家兼は和解。のちに剃髪して剛忠と号し龍造寺一門と共に威勢を振るう。
頼周を倒して龍造寺家を再興する
しかし少弐一族の馬場頼周を初め少弐家臣団は資元を見捨てて、その息子・冬尚に仕えた剛忠を許さず、更に家中で専横を極める家門ら龍造寺一門に対し頼周らは暗殺計画を立てていた。
そして1545年、事件が発生した。それは剛忠の子(家純、家門)と孫(周家、純家、頼純と家門の子である家泰)が馬場頼周らの手によって暗殺された。
剛忠は筑後に逐電し、柳川城主の蒲池鑑盛の保護を受けた。そして再起を図るべく1546年に蒲池氏の支援を受けて挙兵。更に清久の子である鍋島清房の援軍もあって馬場頼周・政員親子を滅ぼして肥前に復帰を果たした。この時、龍造寺家の将たちは家純たちが受けた報復として馬場親子の首を足蹴にすることを主張したが政員の妻が剛忠の孫娘であったこともあり丁重に葬っている。
その後、剛忠は病に倒れ、曾孫で周家の長男・円月坊を還俗させ胤信(のち隆信)と名乗らせ後継者にすると後事を託して死去した。享年92歳。
信長の野望
覇王伝PKから登場。嵐世記から再登場を果たし、後に革新の架空シナリオで登場。天道からは再び大名で登場している。(PKでは少弐家臣として設定されている。)