概要
アメリカのボーイングが開発した、アメリカ陸軍(当時)の爆撃機。
「スーパーフォートレス」の愛称がある。
開発は第二次大戦前から始まっており、当時の最先端機である。日本を空襲した機体として知られており、航続距離の関係でこの機だけが遂行できた。wikipediaのB-29の記事とは、重複を避けることに留意して記述する。
大出力のレシプロエンジンを4基搭載する大型機ではあるが、後継には更なる大型機であるB-36が配備されて、『中型爆撃機』に格下げされた。
孤立主義と爆撃機
アメリカは孤立主義の強い国家である。
これは建国当時から脈々と受け継がれているもので、当初は「ヨーロッパ的な古い空気」を嫌がって新大陸へと渡った『フロンティア精神』と表裏一体のものだった。
つまり古い因習や風俗を嫌い、新しい価値観を新しい土地で作ろうという精神に近いだろう。
(このあたりはどうにも表現が難しい)
さらに砕くと、『そっち(ヨーロッパ)の事情なんて知りません。こっちは好き勝手します』という、特に「モンロー主義」と呼ばれるものである。
これは1823年にアメリカ議会に提出されたもので、
・ヨーロッパの紛争には介入しない
・南北アメリカにある他の植民地には干渉しない
・南北アメリカの植民地化はこれ以上承認しない
・独立の動きがくすぶる旧スペイン領への干渉は許さない
という概要である。
一言で言えば、『アメリカ大陸の事はもう放っといてくれ』という宣言だ。
この外交方針は長らく維持されており、第一次世界大戦の時もアメリカは干渉しなかった。これが破られるのはUボートによる「無制限潜水艦作戦」で、『ルシタニア号事件』が起こってからである。死亡した1198名の乗客の中に、128名のアメリカ人が居たのである。この事件をきっかけに1917年、アメリカは第一次世界大戦に参戦。翌1918年に終戦するまで戦争に参加した。
だが、終戦してからも外交の基礎は変わらなかった。『出来る限り他国の戦争には関わらない』という基礎である。また第一次世界大戦は大きな戦争であり、「もうこれ以上大きな戦争は起きっこない」との観測も支配的であった。それ以上に「戦争はこりごりだ」との世論も強く、ウィルソン大統領の『国際連盟樹立』に繋がった。
だったのだが、肝心のアメリカは連盟に加入しなかった。『連盟に加入なんかしたら、他国の戦争に巻き込まれるじゃないか!』これが当時の議会の考えであり、孤立主義(一国平和主義とも)の継続とも言えた。
しかし、アメリカ政府(ホワイトハウス)は危機感を捨ててはいなかった。それがB-17であり、納税者には『アメリカに侵攻してくる侵略軍を撃滅するため』と説明された。アメリカの海岸線は長大で、そのすべてを取り巻くための鉄道網は今なお不完全である。B-17は沿岸砲台の代わりとして説明され、少なくとも議会は説得できていた。
(それでも「高価すぎる」として批判されていたが)
このB-29はその改良・発展型として開発された。B-17は『侵略軍に対する防御要塞(防御砲台)』だったが、このB-29では流行の「戦略爆撃理論」を導入して『敵本土を直接爆撃し、戦争継続を困難にさせる空中要塞』とされた。
仮想敵は中南米に植民地を抱える列強諸国である。イギリスやスペイン、フランスといった欧州列強と睨み合った時代から一世代経ていたが、『世界恐慌をきっかけにヨーロッパが新たな干渉を始める』という予測は、当時でも妥当だと考えられたのだ。
前置きが長くなってしまったが、これでようやく本機の解説に移れるというものである。
空飛ぶ技術博覧会
B-29には1930年代後半の最新技術が惜しみなく投入されている。例えばB-17で取り入れられた新要素(排気タービン・重防御)はすべて取り入れられ、これらに機内を完全機密・完全与圧にして、リモコン機銃を防御銃座に取り入れている。これらはどれを取っても当時の最新技術の結集であり、最高傑作だった。
付け加えるならば、当時(戦間期)までのアメリカの工業技術は過小評価されていた。
『アメリカは文明世界の片田舎』と見なされていたのだ。
開拓時代のイメージそのものだったのだが、その後の発展で一つだけ見過ごされていた。
『新大陸では自動車が生活道具になった』という事である。
これは大きな相違を生んだ。
その国の工業技術レベルの基準ともされる自動車の普及は工業技術の発展を促し、庶民の生活も向上させるものではあったが、自動車が発明された欧州はそれほど広大ではなく、交通網は自動車の黎明期は普及していた馬車、鉄道でまだ充分で、『自動車は金持ちの道楽専用』とみなされていたからだ。
しかし、広大で鉄道の敷設状態も満足ではなかった新大陸では自動車は輸送・移動手段に不可欠な生活道具となっていき、『貴族・金持ちの道楽』に留まる事は許されず、資金さえあれば誰でも自動車を買える物となっていた。
象徴的な出来事は1908年の『T型フォード』発売である。
労働者の給与で買える自動車の登場である。この登場は大きな生産設備を必要とし、これがまた工業技術の発展を促した。生産工場の労働者にも恩恵があった。
自動車を作って売る。
売れて儲けが出る。
儲けたので給与が増え、工場労働者も自分の自動車を買う。
また儲けが出る。
そしてその過程で技術も発達・進化を遂げていった。
まさに発展のスパイラルである。
こうして、欧州にすら負けない程にアメリカでは工業技術が発達していったのである。
再び話が逸れてしまったが、B-29にはこうして培われた工業技術の粋が集められている。
排気タービン一つとっても細かい技術発展の結集であるし、しかもこれを大量に生産できて、かつ一定以上の性能を保証されている。全ては工業技術の高さなのである。
これらが注目されなかったのは、単にヨーロッパが偏見を持っていたからである。
ちなみにこのターボチャージャーは、実は使い捨てに近い代物で、工業力ずくで数多く供給することで毎回の出撃をこなせるようにしていた。
だが…当初はB-29の生産は難航した。初期生産分が100機ほど引き渡されても、R-3350エンジンが意外と故障しやすかった他、機体側でもエンジンナセルが空気抵抗を減らそうと絞り込みすぎており、冷却能力に余裕がなかった。
エンジン火災に付きまとわれた機体でもあり、試作1号機もエンジン火災事故で墜落し、地上の食品工場の人なども含め30名もの犠牲者を出している。
中国に展開させる予定の部隊に割り当てられた初期ロットの機体100機ほどは、稼働率が0%近いという散々な有様で、業を煮やしたアメリカ陸軍航空軍のヘンリー・アーノルド将軍が強権でカンザス州に機体を集め、工員や技師も集め、修理や改修を緊急に行わせ、ようやく一定数を送りだせたというエピソードもある。
モデル341
1940年1月29日、アメリカ国内の航空機メーカーは
・最大速度400mph(644km/h)で
・往路に1tの爆弾を搭載し、
・5333マイル(8582km)飛行できる
長距離爆撃機の計画案を1か月以内に提出するように求められた。
ボーイングが提出したのが「モデル341」という計画案である。
この計画案は、後のB-29に非常に似通ったもので、徹底的に空気抵抗を抑え込むため、B-17のようにコクピットが一段高くされていない。このため機体表面にも突起物がほとんど無く、非常にスマートである。この計画案は他社を差し置いてトップで提出され、試作される事になったのである。
他社も黙ってはいなかった。
ボーイングに続いてロッキード、ダグラス、コンソリデーテッドと開発案を提出し、それぞれ試作・試験がされるようになった……と、ここでロッキードとダグラスが揃って脱落。
どの会社も開発が難航し、自社で研究を重ねていたボーイングだけが順調に進行したのだ。
唯一コンソリデーテッドだけがB-32を完成させたものの、トラブルが続出し、解決に奔走する内に第二次世界大戦は終結寸前となっていた。
B-32「ドミネーター」
前述のとおりトラブルが続出して実戦投入は大幅に遅れた。
中でも与圧装置が不調で、高高度飛行ができなかった。
B-29の方が先に完成・実戦化したため、主に練習機(機上作業練習機)として生産されることになる。だがB-29をそのまま使った方が便利で、しかも高高度飛行が出来ないのでは何の練習にもならないので発注は大幅に減らされている。
開発・生産元である「コンソリデーテッド航空機社」は1941年末に「バルティ航空機社」と合併し、「コンソリデーテッド・バルティ航空機社」(のちに略してコンベア)となる。B-32の実績のためか、はたまた新規出直し企業としての面子を守るためか、1945年8月18日に2機が関東上空の偵察に沖縄から投入されている。
だが、海軍・厚木基地から出撃した4機の集中攻撃を受けて1機がエンジンを損傷。
1名戦死・2名負傷の損害を出しながら辛くも帰投したが、これが唯一の実戦となった。この戦いの詳細は軍事機密とされ、B-32による東京偵察の事実は長らく謎といわれていた。
(この戦闘には坂井三郎も参加している)
が、実際には「終戦間際に要らんコトやって死人まで出した醜聞を秘密にしたかった」というのが実態だったらしい。厚木基地をかすめるコースをとった時点で(日本側の)自衛が成立することになり、さらに死人まで出してしまっては言い訳ができる訳もなかった。関係者には口止め料代わりの勲章がばら撒かれ、こうして最後の醜聞は関係者の死に絶える約50年にわたって封印されることになったのだった。よほど機密性の高いことをしていたからではない。単に醜聞だったのである。
XB-32が3機・生産型B-32が75機・練習機型であるTB-32が40機と、
B-29の生産数に比べるとささやかな数だけが完成している。
『超・空の要塞』来たる
これまで示してきたように、B-29は先進的な機体である。
エンジンは9気筒星形を2列重ねにした18気筒。さらに排気タービン(過給機)が装備されており、成層圏の巡航も可能。また、当時珍しかった与圧システムを採用し、機内の乗員区画はすべて1気圧に与圧されており、普段は酸素マスクや防寒着が要らない。これだけでも驚くべきものだが、防御銃座にはリモコン機銃まで採用されている。
どれだけ凄いのか。
ほかの国には出来なかった位に凄いのである。
(防御用リモコン機銃はドイツのMe410でも採用されたが)
ただし言っとくとこのリモコン銃塔、あんまりに当たらないのでB-17で一度ボツになったシロモノである。
(E型の初期で搭載されたが、後期型から有名なボール型有人銃塔になった)
B-29も当初は日本軍戦闘機で少なからず損害を出していた(後述)ことから、
ボール型有人銃塔への変更が検討された。
しかし飛行性能の低下が著しかったため実現せず、代わりにF6FまたはP-51の護衛をつけることになった。
実はこのリモコン機銃は夜間戦闘機のP-61にも同じものが搭載されており、B-29への供給を優先するため、P-61では一部の機体がリモコン機銃無しでロールアウトしている。
B-29とB-29Aがあるが、これは工場が違う他にも内部構造が変更され、生産性が向上している。夜間爆撃用にレーダーを搭載したのがB-29Bで、さらにエンジンを換装したB-29Cも計画されたが、これは実現しなかった
対日戦の成績
B-29の「作戦回数から見た延べ機数(ソーティ)」では、損耗率は4%程度と極端に低くなっている。
特に9000m以上の高高度で侵入した場合、高高度性能が低い日本機では急上昇して相手を迎撃できる高度に上がったうえで迎撃出来るのは短時間で、会敵も困難で、出来たとしても一撃を加えた後に排気タービンでエンジン出力がほぼ変わらない高速のB-29を追尾するだけでもやっとといわれ、高射砲も第一次世界大戦レベルだったので砲弾は届かないか、届いてもそれは間近に迫った短時間のみで阻止が困難だった、と言われる。
(有効射高が大きい三式12糎高射砲は数が少なく、久我山だけは当時最新鋭の五式15糎高射砲が配備されたが、これも2門のみ)
もっともB-29も高高度でのジェット気流に悩まされ、目標地点上空に達しないものや、故障で引き返す機体が相次いだという。
一方で「実際に投入された機体数(スコードロン)」では、損耗率は10%を超えている。八幡空襲で航空特攻を受けて戦死したロバート・クリンクスケールズ中佐など爆撃隊長クラスにも戦死者が出ており、余裕綽々で任務をこなしていたというわけではない。
B-29自体、エンジンが不完全で火災事故などが絶えなかった(主にエンジンナセルの狭さによる排熱不良や排気タービンに関連した火災)
勘違いされがちだが、被弾するとB-29はB-17よりも脆い。
のっぺりと長い機体に与圧キャビンが仇となって、隼の貧弱な12.7mm機銃2丁でも空中分解する危険があった。実際に乗員が吸い出されかけた事例もあり、隣の搭乗員が大急ぎで駆けつけ、引き留めてようやく命拾いした事例もある。この様子は僚機からの写真でも残っている。
雷電(20mm機銃4門装備)に襲い掛かられた時など、クルーは恐怖のどん底に叩き込まれたという。
実際、日本側にもB-29の被弾時の脆さは認識されてしまっていた。特に主翼付け根が弱点とされた。ただ、日本側は「このあたりに酸素タンクがあるので、被弾すると破裂しさらに火災が起こる」と思いこんでいたのだが、実際には「高アスペクト比の主翼の荷重がもっとも集中するところなので、ここに被弾すると空中分解の危険性が高い」だった。
この為、日本軍戦闘機が執拗にここを狙うため、日本側が撃墜にまで至っていないと判断した機体も、帰路で強度が限界に達し洋上で墜落・喪失というケースも多かった。
また東京湾に爆撃高度(おおむね8000m以下)で侵入した時などは高射砲弾もよく集まってきたという。東京に関して言えば、爆撃直後に離脱コースを取っているときがもっとも危険で、高射砲弾は集まってくるわ、雷電(海軍・厚木基地所属)や鍾馗(陸軍・柏基地所属)は逆さ落としに突っ込んでくるわで、気が気じゃなかったらしい。
それでも高いレベルで作戦行動を維持し続けたのは一重に高度にシステム化された乗員育成プログラムと、高い練度の維持・そして何より乗員や整備員の献身的な努力の賜物である。技術的な事ばかり注目されるが、詰まるところアメリカは「人材」という面でもこの機体に相応しいレベルだったのである。
一方日本でもB-29が日本本土空襲に投入される時期には、すでにオホーツク海沿岸部の一部を除いて電波警戒機(レーダー)の警戒網が沿岸に張り巡らされていた。
だが技術的な劣後はいかんともしがたく、高度・機種判別が出来ないなど稚拙と言わざるを得ないものであった。更にアメリカ側は(イギリスが対独戦のために開発した)チャフを散布することで日本側のレーダーを欺瞞していた。B-29の高高度性能もあって日本側の迎撃努力が実を結んだとは言い難く、護衛もつけない裸同然の爆撃任務でもB-29が大きな損失を出すことはなかった。
しかしながら当時の照準器の性能では高高度爆撃では精度が足りず、損失が少ない一方で戦果も少ない。戦果と損害の比率で見ると当初のB-29は戦果に見合わぬ犠牲を強いられていたと言える。
1945年1月20日に第21爆撃集団司令官となったカーチス・ルメイ少将はこの状況を目の当たりにして改善の必要性を感じ、日本側の防空能力を再分析した。
そして欧州戦線に比べ日本軍の対空砲の数の少なさを考慮して、3000m以下での低高度での焼夷弾(ナパーム弾)を主とした低空無差別爆撃に方針を転換。ただし昼間では迎撃機・対空砲による犠牲も当然ながら増大すると考えられ、夜間爆撃とされた。また少しでも爆弾を搭載する為に尾部銃座以外の機銃を外しての軽量化が図られたが、流石に乗員からの不満で東京大空襲の後は戻された。だが、夜間爆撃では弾薬は下部の銃座にしか配給されなかったという。
高高度爆撃機としてのB-29の利点を捨てるような措置ではあったが、ジェット気流を受けない事から燃料の節約にもつながり航続距離は伸び、日本の広大な地域を灰燼にさせ、大勢の民間人を殺傷すると共に工業地帯に壊滅的な打撃を与える事となった。
現場の人員は当然「我々を的にする気か」と憤慨していたが、蓋を開けてみるとルメイの想定は見事に正鵠を射ていた。低高度爆撃でも日本軍の迎撃は相変わらず低調で損耗率が有意に上昇することはなく、一方で比べるまでもない圧倒的な戦果を実現した。低空爆撃戦術はこれ以降も続行され、日本人の目にそのシルエットを焼き付けることとなったのである。
その低さたるや、燃え盛る炎によってB-29が照らし出され、乗員は時計を読むことが出来たというほど。この為、日本側では何とか爆撃前に何機かだけでも落とせないかと、灯火管制の中止が提案されたことがある(なおドイツは本当にやった)。
硫黄島攻略の理由は、長大な距離を帰還するB-29のうち損傷・故障などで緊急着陸を要する機体の着陸基地とする為と、硫黄島からならP-51の護衛がつけられるからであるが、ルメイがニミッツを騙したためニミッツはルメイが大嫌いになった。
(ニミッツは「日本海軍が壊滅した時点で日本はいずれ干上がるのだから、民間人に多大な犠牲の出る戦略爆撃などやるべきではない」と主張していた。しかしながらドイツが降伏し早くも勝利ムードに国民が浮かれている状態で、長々と日本人の餓死を待つ猶予はアメリカには無かった。)
本土防空戦ということで日本側にも手練れがそろっており、雷電や隼でP-51を撃墜する強者もいたが、伝説的な戦闘をいくら語ろうと戦略的見地から見れば誤差の範囲である。エースパイロットらの奮戦が米軍の損耗許容値を超えることはついぞ無かった。戦後の研究では高射砲のほうが有効に機能していたのではないかという分析もある。
超・空の『偵察機』
B-29には偵察機型がある。これはF-13と呼ばれており、爆弾の代わりに偵察カメラを搭載している。実はこのような改造は現地で多く為されていたのだが、F-13は本格的な改造を受けた機体である。
B-29から改造された機体がF-13、B-29Aから改造された機体はF-13Aという。改造機数は117機とも118機とも。主な機体はトウキョウローズ、ヨコハマヨーヨーなど。
戦後のB-29
アメリカ編
第二次大戦が終結した後も、B-29は継続して爆撃任務に用いられた。だが朝鮮戦争でMiG-15に惨敗を喫してしまい、以降は優秀な飛行性能を買われて空中給油機として活躍する事となった。各種エンジンのテスト機や、X-1やXF-85といった実験機の母機にも使われた。また、ワシントンMk.1としてイギリスにも貸与されている。
のちにエンジンを換装して性能向上を図ったB-50(元B-29D)も設計された。最大速度で60km/h程度向上しているが、既に後継機としてB-36が活躍しているせいか300機余りしか生産されていない。
(B-29の生産数は3970機)
おそらく高価なB-36の補助だったのだろう。エンジンもB-36と共通にされている。こちらも後に空中給油機となっている。
さらなる発展として胴体を大型化し、主翼やエンジンなどを流用したC-97輸送機が888機生産。こちらも後に空中給油機として使用され、KC-135に交代するまで主力を務めた。
そして更にC-97を民生用に再設計したのが「最後の大型レシプロ旅客機」と呼ばれた旅客機ボーイング377ストラトクルーザーである。
豪華な設備が話題を呼んだが、当時の旅客機としてはあまりに大型・高価すぎたため、56機しか生産されなかった。
日本での採用会社は無かったが、パンナムやBOACなど英米の主要航空会社で使用され、羽田にもよく飛来していた。
この機体を更に改造したものが大型貨物輸送機「プレグナントグッピー」とその後継機である「スーパーグッピー」で、「スーパーグッピー」は今も現役で飛行する唯一のB-29一族の機体である。
ソビエト編
ソビエトでも戦後、B-29を基にした爆撃機を開発している。
これは被弾して帰投が困難になり、やむなくウラジオストクに不時着したもので、本来ならばすぐに返却しなければならないものだった。だが、なにぶん戦争遂行中で忙しく、なにより開発の難航していた「4発重爆撃機」の生きた参考資料である。なんやかんやと言い訳をしつつ、とうとう自分のものにしてしまった。
こうした無茶が通ったのはルーズベルト大統領が親ソビエトの立場をとっており、ガミガミと返還要求しなかった事や、ソビエトが「不時着した後、乗員は勝手に逃げ出した。そうなると機体と乗員を保護・返還するという正式な手順は満たしていない。なら機体はあくまで拾い物であるから、むしろ迷惑料に寄越せ」と主張していっこうに返す気配を見せなかった事がある。
(ただし、ソ連の立場上正式に返還することはできなかったのも事実である。と言うのも、この時点で米ソは同盟国だったが、ソ連はまだ対日参戦前で、対日戦に参加してソ連に不時着した米軍機や搭乗員を保護したりすると日ソ中立条約違反になってしまうからである。もっとも、すぐ後に自ら破るのだが)
こうして分捕った(?)B-29は3機にもなり、分解して設計図におこすと早速生産に取り掛かった。完成したものがツポレフTu-4「ブル」で、詳細はTu-4の項目に譲るが、文字通り瓜二つのコピー品である。
あまりに完璧にコピーしようとしたあまり、B-29の設計には本来存在しない、製造途中のミスで開けられたドリル穴までコピーしてしまった(被弾痕をパッチでふさいだ跡という説も)という逸話も伝えられている位である。
一方で、ヤード・ポンド法で設計された機体をメートル法で再設計したことによって誤差が生じて重量が500kgほど増えたり、インテグラルタンクや前後乗員区画を結ぶ与圧トンネル等のコピーが上手くいかなかったりしたため、航続距離は本家より短くなった。
B-29に準じた爆撃機ではあったが、1950年に勃発した朝鮮戦争でB-29が大損害を負ったので、こちらも自動的に時代遅れとなってしまった。
だが、朝鮮戦争でMig-15を用いてB-29を過去のものにした中国空軍もTu-4を入手しており、エンジンをターボプロップエンジンに換装するなど、独自の改修を施して運用していた。
後に中国空軍はこの改造Tu-4を更に改造、レーダードームを装備した早期警戒機型KJ-1を開発している。だが、こちらは文化大革命の混乱に巻き込まれて計画中止となってしまった。
本家アメリカが新型のジェット爆撃機を開発・配備していくのと違い、Tu-4はそのまま新世代機のベースとなっていった。民間機に発展したTu-70、Tu-75、Tu-80に引き続き、ターボプロップエンジンを採用したTu-95が登場したのだ。
見た目の上ではすっかり別物になってしまったが、機体尾部の機銃座にはよく似た面影を残している。時代は半世紀経ってしまったが、Tu-95は同時期に開発されたB-52とともに、現在も世界の空を飛びまわっているのである。
関連動画
動態保存されているB-29。爆弾が展示用のダミーに換装され、通信機器にGPSが追加されている点以外、ほぼ当時のまま。