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DC-6

でぃーしーしっくす

DC-6とは、アメリカの航空機メーカーであるダグラス社が世に送り出した航空機のひとつ。ここでは、発展形のDC-7についても述べる。
目次 [非表示]

概要

元々はアメリカ陸軍航空隊向けの輸送機・C-54の発展形であるXC-112として開発された機体。だが初飛行は1946年と、第2次世界大戦には間に合わなかった。

それでもアメリカ陸軍航空隊→アメリカ空軍向けの輸送機としての開発は進められ、C-118として採用された一方、アメリカ海軍でもR6Dという名称で採用された。


そのC-118を民間輸送機に転用したのが、DC-6である。C-54の胴体をストレッチし、DC-4のごく一部で試験的に採用していた与圧(気体の内部の気圧を地上の気圧とほぼ同じにする)システムを本格的に採用、さらには気象レーダーを搭載して全天候運用に対応(DC-3やDC-4には搭載されていないので荒れた天候下での運行が出来ない)、エンジンをプラット&ホイットニー社(アメリカの航空機用エンジンのメーカー)製のR-2800エンジン(チャンス・ボートF4UコルセアやグラマンF6Fヘルキャットにも採用されたエンジン)を搭載することによってスピードアップと航続距離延長(北大西洋の無着陸飛行が可能)を実現させている。


1947年に本格的に生産が開始され、1959年までにC-118・R6D・DC-6合わせて約700機が製造された。

製造された機体は北アメリカ大陸横断路線や大西洋路線・太平洋路線に投入され、1950年代の空の旅の花形として大活躍。ライバルであるロッキードコンステレーションシリーズと共にレシプロ旅客機の傑作として確固たる地位を確立し、レシプロ旅客機最後の黄金時代を象徴する名機として開発した。

DC-8を始めとするジェット旅客機の出現後はローカル線やチャーター便運航会社などで余生を過ごした。また、旅客機タイプの中には貨物機に改造されたものもある。

1980年代に入ってからは流石に姿を消していったものの、いまなお数十機が、貨物機や消防飛行機(ウォーターボマー)として、アメリカ大陸で飛び続けているそうである。


DC-7

ダグラスはDC-6の発展改良型として、DC-7を開発した。

これはライバルであるコンステレーションシリーズの発展形・L-1049G「スーパーコンステレーション」への対抗を目的に、DC-6のエンジンをL-1049Gも搭載しているカーチス・ライトR-3350(ボーイングB-29の搭載エンジン)の改良型に換装し、胴体延長などを行ったものである。


1953年から運用を始めたものの、元々DC-4からさして変わらない基本構造設計にR-3350のような最新鋭高出力エンジンの組み合わせはあまりよろしくなく、エンジン振動や騒音はDC-6よりも悪化した有様だった。加えてエンジンそのものも不調などに悩まされていた代物であることも相まって、既存の航空会社は実績もあるDC-6を導入することが多かった。また、そのエンジン関係の不調のせいか、アメリカ空軍アメリカ海軍からは見向きもされなかった。ゆえにこれの軍用タイプは存在しない。

打開策としてエンジンをボーイング377にも搭載されたプラットアンドホイットニー・R-4360「ワスプ・メジャー」に換装し、機体にも大幅な改設計を行った長距離型のDC-7C「セブンシーズ」を開発するが、既にジェット旅客機の時代に入りつつあったこともあって、早々に表舞台から姿を消してしまった。

総生産機数は338機。DC-6の半分程度に終わるなど商業的に失敗し、おまけに複雑なエンジンが嫌われて中古機市場ではDC-6より安い価格で取引される状況だったという。


DC-7の失敗は、レシプロ旅客機の技術的進化の限界を如実に表したものでもあった。ライバルであるコンステレーションシリーズも、エンジンの改良や主翼大型化による航続距離延長を行った最終発展形・L-1649A「スターライナー」が開発されたが、こちらもジェット機時代の突入も相まって44機の生産で終わった。

かくしてレシプロ旅客機の時代は終わり、今日まで続くジェット旅客機の時代が始まることとなる。


日本におけるDC-6とDC-7

1950年代後半の日本航空の花形機として大いに活躍した機材であった。


ノースウエスト航空の運航委託から脱し、(パイロット以外は)自分たちの手でまかなえる様になった際の主力機であったDC-4からの流れかつ、太平洋を越えてアメリカに乗り込むための機材として、1952年9月に導入を決めた。そして同年11月にダグラス社に2機発注したものの、「2年待て」と言われてしまった。そんな事をしていたら1954年2月に予定していた東京ホノルルハワイ)~サンフランシスコ路線開設にとてもじゃないが間に合わない。そこでダグラス社の生産ラインに乗っかっていた貨物機2機分と中古の貨物機1機を他の航空会社2社から融通してもらい、旅客機に作り直してもらった。こうして何とか確保した3機は、1953年9月から11月にかけてに日本に到着。同年10月から慣熟飛行も兼ねて東京~札幌線に就航させた。

そして当初の予定通り、1954年2月2日、東京~ホノルル~サンフランシスコ路線に就航させた。

ちなみに旅客機に改装した貨物機にかかった費用は普通に旅客機を購入した場合の約1.5倍だったそうである。はっきり言って火の車状態であった日本航空にとってはあまりにも高い買い物になった。


その後なんとか導入した自社発注の旅客機2機(本当に発注から2年かかってしまった)、よその航空会社からお払い箱になった旅客機3+1機を導入(+1機は操縦訓練用)、東京~那覇路線や東京~香港路線、東京~バンコク路線にも就航させている。


1956年にはDC-7を4機発注、1957年12月に1号機が到着、1958年2月にDC-6に代わって東京~ホノルル~サンフランシスコ路線に就航。これによりDC-6は東京~シンガポール路線に就航するなど、主に東南アジア路線に回されるようになる。

ただDC-7を発注したのは、実はジェット旅客機であるDC-8よりも後だった。つまり、DC-7はDC-8導入までのショートリリーフでしかなかったのだ。

だがその割には日本を意識した内容の、特別仕様機に仕立て上げており、その後のDC-8の(ダグラス社の関係者を大激怒させた)機内デザインにも影響を与えた。


そしてDC-8導入後は国内線に回されたが、1964年8月から9月にかけ、DC-6のうちの1機「シティー・オブ・ナゴヤ号」(ちなみに自社発注機且つ元から旅客機)が東京オリンピックの聖火をアテネから那覇まで輸送している、のだが、当時アメリカの治政下にあった那覇止まりになってしまったのは、当時の鹿児島空港が鹿児島市街地にかなり近いところにあり、滑走路の長さが短くてDC-6の離着陸が出来なかったため(替わりに那覇からは、製造元の日本航空機製造所有のYS-11が聖火を輸送した)。また、「シティー・オブ・ナゴヤ号」は、この聖火輸送の間は「シティー・オブ・トーキョー号」に改名させられている。


国内線で使うにはコストがかかってしまうDC-7は1965年には全機退役したが、DC-6に関しては国内線にボーイング727が就航してもしばらくは活躍をし続け、1969年3月、ついに勇退、同年4月に最後の機体となった「シティー・オブ・フクオカ号」が日本を離れた。


なお、DC-6には日本の大都市および観光都市、DC-7にはアメリカの3都市と香港が、愛称として採用されている。


また、スカンジナビア航空スイス航空およびパンアメリカン航空(パンナム)やノースウエスト航空がDC-6とDC-7両方とも、キャセイ・パシフィック航空タイ国際航空アリタリア航空、カナダ太平洋航空(後のカナディアン航空)、カンタス航空はDC-6を、KLMオランダ航空はDC-7を、それぞれ日本路線に投入している。

パンナムやノースウエストはボーイング377ストラトクルーザーの、カンタス航空やKLMはロッキードコンステレーションの、それぞれ補佐的な投入であったが、それら以外は主力機として投入、羽田空港をおおいにわかせた。なお、キャセイ・パシフィック航空のDC-6は伊丹空港にも乗り入れたことがある。


ジェット旅客機の時代に入ると流石に第一線からは退いたものの、その後もチャーター機としてDC-6(やC-118)が日本に飛来している。


参考資料

特に本書の「JAL HISTORY」(62ページから84ページ)、「日本航空年表」(171ページから179ページ)を参照

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