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DD51

でぃーでぃーごじゅういち

国鉄が幹線用に製造した液体式ディーゼル機関車
目次 [非表示]

国鉄DD51形ディーゼル機関車

非電化幹線における蒸気機関車の運用を置き換える「無煙化」達成のための本格的な主力機として開発された。当時既に本線用機関車として電気式のDF50形の量産が進んでいたが、電気式故の重装備による高価格、そして性能的にも本線用として満足できるものではなかった。そのため国鉄は電気式ディーゼル機関車に見切りをつけ、入換用のDD13形をベースに大型化を図った当型式が開発されることになった。なお速度としてはC61以上、牽引力としてはD51以上の性能を持つように設計されている。また線路規格の低い亜幹線に入線出来る様、中央部に付随台車がある。この台車は開発初期は低規格路線の軸重対策で装備されたものだが、量産の際に枕バネに空気バネを採用して軸重を14tと15tの2段階に変えられるように改良され、低規格路線への入線と高規格路線の牽引力増大を両立している。

整備や機器配置の容易さから、本線用機関車としては世界的にも珍しい車両中央部に運転台を設置したセンターキャブ構造の型車体を採用したことが特徴となる。ただしDD13やDE10のように運転席は両面共用ではなく、進行方向に向かってそれぞれ存在する。

当時の設計者の著述によると、当初はDF50同様の本線機に相応しい箱型車体を想定して作図し始めたが、上司より「これはダメ、ボンネット型に」と現行の凸型への修正を指示されたという。理由はDF50が度々オーバーヒートに苛まれ(特に冬場の重連)、当時の技術で抜本的に回避するにはラジエーターに十分風を当てられる凸型しか選択肢がなかったらしい。

エンジンは大雑把に言うとDD13(6気筒)の後期型(出力500PS)をV形12気筒に組み直した(シリンダー数が倍になったので1000PSになった)ものである。これをDD13同様に前後に1台ずつ搭載した。ただし変速機は流用できる出力容量ではなくなっており、全く新規に設計された。

また、主に冬季の客車列車牽引用としてキャブ内に蒸気暖房用ボイラー(SG)を搭載するが、貨物用の800番台など未設置のものも存在する。1990年代半ばになると、SGを必要とする客車がほぼ全廃されたため、現在の現存車で使用しているものは無い。


1962年に試作車が新製され、性能確認を経て1964年より量産車が順次増備された。製造が長期に亘り、活躍の場も広範であったため、多種多様のバリエーションが存在する。それまで非電化幹線で活躍していた蒸気機関車を置き換えて行き、1975年12月を以て営業列車の無煙化を達成した。1970年代前半のSLブームの時期にはファンからは蒸気機関車を追い落とす敵役扱いをされ、「赤ブタ」「文鎮」「ダメデゴイチ(DameD51)」「デラックスD51(もちろん皮肉)」等と罵倒されたことすらある。


無煙化達成後もDF50などの老朽機の置き換え用に1978年まで増備が続けられ、総数は649両に達した(後述の火災による除籍車があるため、最大在籍数は642両である)が、その頃から電化の進行と貨物列車・客車列車削減の影響を受けるようになり、1980年代に入ると初期車を中心に大量の余剰休車が発生するようになる。

車齢・償却の問題から即時に廃車には出来ず、機関区の片隅や駅構内に連なり、また色褪せて哀れな姿を晒す光景が、民営化後しばらくの間まで各地で見られた。

初期グループは1984年頃、その他の余剰車も国鉄の民営化が決定した1985年度末から除籍が始まり、それらの車(車齢15年弱の若い車も含まれていた)はそのまま国鉄清算事業団に継承されて、後にスクラップとして処分されていった。


国鉄分割民営化に際してはJR四国を除く旅客会社各社とJR貨物に承継されたが、その数は総数の半数以下である259両に過ぎなかった。その後は更なる合理化による余剰の発生や、老朽化によってJR貨物が新製したDF200形への置き換え等もあり、さらに両数を減らしていった。


2020年時点では定期運用として関西本線名古屋口での貨物運用があり、細々ながら最後の活躍を続けていたが、既に自動車車検に相当する全般検査が行われなくなっている関係上、検査期限の切れた車両からDF200形への置き換えが進み、2021年3月のダイヤ改正直前に全ての定期運用から撤退した。旅客会社では北海道、東海、九州ではすでに全廃され、東日本と西日本に在籍し、臨時、工事列車に使用されており、お召列車の非電化区間での運行でも使用される場合がある(東日本は「なごみ」登場で終了、2019年現在では西日本の「サロンカーなにわ」使用時のみ)。


なお、1965年以来、常に何らかの形で寝台特急の牽引運用に充てられてきたが、単一形式としては日本鉄道史上最長期間の記録を有していたが、2016年に北海道新幹線開業に伴う「カシオペア」「はまなす」が廃止されたことで寝台特急の牽引も終了となった(なお、北海道新幹線開業後のカシオペアの道内運行ではDF200形を使用)。

青函トンネル内はディーゼル車が緊急時(開業後の緊急時用に配備されたのはDE10形)以外基本的に使用禁止だったため、営業運転においては自力では走行していないが、開業前の建築限界測定車の運行の際はED79形とのプッシュプルという形で力行走行している。瀬戸大橋は四国内で使用されなかったこともあり、走行実績はない。


前記の通りSLブームの頃には鉄道ファンにはさんざん罵られたものであるが、月日が経ちいよいよ先が見えてきたとなると、往時を知らない世代が増えたこともあってか今度は重厚な大ベテラン扱いされて追いかけられるようになった。世代ギャップを感じるオールドファンも多いだろう。ちなみに「ダメ」扱いの比較対象とされたD51形の一般営業用機関車としての実働期間は36年間(1939年1975年)。先行量産機投入(1964年)から50余年が経過した本機はすでに大きく上回っている。


半世紀以上にわたって四国を除く全国で活躍したため、アニメや漫画など2次元でディーゼル機関車といわれるとなんとなくDD51のようなものを描いてしまう詳しくない人間が多いが、開発系譜や構造などを知らず、ファンタジーであろうと異世界ものであろうと、適当かつ訳の分からないアレンジをかけて描いてしまうため(例えば台枠という概念がわからない一般人は多い)、年代の間違いや形態の考証不足、機能の不理解による噴飯ものの描写がかなり多い。デザイン担当の脳内の引き出しの数がバレるリトマス試験紙的な題材と言っていい。解らないならそのまま描けばいいのに知ったかぶりするとすぐにばれる。

国際的にみればスイッチャーの構造をそのまま踏襲したDD51のほうが異端なのである。

世界の車窓から」や「暴走機関車」などを観ておくだけでも参考になる。


分類

0番台

試作・量産初期のグループで重連総括制御の機能を持たない。

1号機(試作機)

1962年3月に日立製作所で新製された。車体、特にキャブ周辺に曲面が多用され、2号機以降と大きく外観が異なる。当初秋田機関区に配置され各種の性能試験を行ったが、勾配線上での起動試験の際に列車(1000t)の引き出しに失敗、最後部に連結されていたD51の補助でようやく動き出したとの逸話が残っている。その後盛岡機関区に転属するが、晩年は再び秋田に戻る。その後1979年に休車となった後は復活することなく1986年に廃車された。

廃車後は高崎運転所に移され、1988年に整備の上で登場時の塗装に戻されている。その後も同所で保管されていたが、1999年以降は碓氷峠鉄道文化むらで保存されている。

2~4号機

1963年に製造された「量産試作車」とも言えるグループで、車体形状が直線的になり、その後のDD51のスタイルを確立させたグループである。3両とも盛岡機関区に配置されたが、後に2・3号機が秋田に、4号機は岡山に転出している。このグループは1983~85年に全車が廃車となっている。

5~19号機

1964年に製造された量産車であり、中間台車が空気バネに変更され上記のように軸重の調整が出来るようになっている。後にエンジンを交換して出力を増強(2000PS→2200PS)して、その後に製造された車と性能の統一を行っている。(試作グループも同様。余ったエンジンはデチューンのうえでDD16へと転用されている)このグループは盛岡・吹田・鳥栖などに配置されたが、後に吹田・東新潟に集められた。1984年頃に運用を離脱して1985~86年に全廃された。

20~53号機

1964~65年に製造されたグループであり、エンジン出力の増強が行われた。このグループ以降ボンネットの正面ナンバー周りの塗り分けが変わったため印象が異なる。やはり1984年頃に全車が運用を失い、1987年までに廃車されている。


500番台

501号機から799号機、1001号機から1193号機が該当する。800以降の番号が飛んでいるのは後述の800番台との重複を避けるためである。

501~547

1966年以後に製造されたこのグループから重連総括制御装置が搭載されるようになった。なお、初期のグループは釣り合い引き通し管(ERP)を持たず半重連形と呼ばれる。

548~592

このグループからは中間台車にもブレーキ装置が装備され、スペース確保のため燃料タンクの縮小が行われている。これらのうち美濃太田機関区に配置された587~592号機の6両のみボイラーが省略されている。


なお、北海道に配置された半重連型の一部は全重連型に改造されており、区別のために区名札の横に全重連形には「全」、半重連形には「半」の札が差し込まれていた。

ちなみに半重連と全重連の機能面での違いは、本務機で単弁(機関車だけにかかるブレーキ)を扱った時に本務機だけブレーキがかかるか、本務機と補機両方にブレーキがかかるかの違いである。


593~799・1001~1193

1968~77年にかけて製造されたグループで、釣り合い引き通し管を装備する。

増備ごとに細部の改良が行われており、外観上目に付く主なものとしては、1001号機以降のナンバーのプレート化(ブロックナンバープレート)、1052号機以降のラジエーターカバーの分割化などが挙げられる。

1986年から廃車が始まり、民営化の際に740号機までの全車と、1051号機までの約半数がJRに引き継がれることなく除籍された。


民営化後の残存車も安泰ではなく、早くも1990年頃から客車列車の減少や運用合理化、老朽化の進行で順次廃車が進み、2020年現在はJR西日本とJR貨物に計9両のみ残存する。


800番台

801から899号機、1801号機から1805号機までが該当する。製造中に800番台が99機を突破してしまったため、以降は千の位を足してカウントしている。

蒸気暖房を使用しない貨物列車向けとして、500番台全重連形をベースとしながらも、蒸気発生装置と付属する機器を完全に省略した。当時旅客列車の運用を持たない、あっても少数に限られる機関区もあり、全車両に使う当てのない蒸気発生装置を装備することは極めて不経済であるからである。当然ながら貨物列車の運用がメインである稲沢・吹田・厚狭・門司などに集中的に配置される傾向がみられた。

801~896

1968年から75年にかけて製造されたグループで、単純には500番台から蒸気暖房のボイラー(SG)と関連機器をバッサリ削っただけである。キャブのサイズは変わっておらず、内部は相撲が取れるほど広いと言われる。現存する842号機などを見ると、蒸気暖房機器用の通気ルーバーは板で塞がれているだけである。当初は新形式である「DD52形」で計画されていたが、労組から難色を示されたためにDD51のバリエーションという形に落ち着いた。なお、1974年製の886号機以降は500番台同様ラジエーターカバーが分割型になっている。

民営化前の1986~87年に885号機までの約半数が廃車となっている。(下記のように、その後4両がJR貨物で復活している)

897~899・1801~1805

1978年に佐倉機関区向け(成田空港ジェット燃料輸送用)に増備されたDD51の最終グループである。需給の変化によってはSG搭載が「不可能でない」ように考慮されていたようだ。(実際に改造した車両は存在しなかったが)


上記のように蒸気暖房を装備しないため貨物列車の牽引がメインではあったが、暖房を必要としない季節の列車、発電エンジンを搭載しているため蒸気暖房がいらない電気暖房を装備する12系14系客車などの牽引実績も無い訳ではない。ことに高崎所属の車は国鉄時代から1990年代終盤まで1月には八高線・中央線経由で初詣用の臨時列車「高尾臨」が12系使用で毎年設定されており、多摩地区のファンにとっては撮り初めたる年中行事の一環であった。

付番が特徴的な1801号機〜1805号機は全車が愛知機関区に転属し、その地で運用を終えている。


特徴的な個体

548号機

1968年9月、DD51初のお召し列車牽引を担当した機関車。現在は三笠市のクロフォード公園に静態保存されている。

また、500番台初期の半重連形から全重連形への改造例でもあり、そういった意味でも貴重な存在である。

592号機

1985年に登場した名古屋鉄道管理局のジョイフルトレインユーロライナーの専用塗装機である。美濃太田機関区に所属していた同機は、ユーロライナーの登場に合わせてEF64 66号機(稲沢第二機関区所属)と共に塗り替えられ、専用機として活躍した。なお、ジョイフルトレインの専用塗装機はこの2両が初めてであり、その後各地で客車のジョイフルトレインに「専用機」が用意される喫機となった。また同機は半重連型のラストナンバーであり、かつSG未装備の希少仕様でもあった。しかしながら国鉄末期の大量車両整理から逃れることは出来ず、1987年2月に除籍された。その後も浜松運輸区で保管されていたが、結局1995年に解体処分されている。592号機除籍後、ユーロライナーはディーゼル機関車の専用機を喪ったが、民営化後暫くして791・1037号機を塗り替えて、専用塗装機を復活させている。

710・716・741・742・745号機

五稜郭機関区に配置されていたDD51のうち、この5両は1972年に冬季降雪時の視界確保のために前照灯が2灯から3灯へ増設される改造が行われた。増設された補助灯がボンネット上にあることで独特な顔つきとなり注目を集めた。特に745号機は本州へ転属した後も補助灯が残されており、2002年に廃車されるまで磐越西線などで活躍していた。なお710・716号機はJRに引き継がれず、741・742も本州に転属、後に補助灯の撤去が行われた。

620・693号機

1981年3月16日、成田線下総神崎~滑河間で発生したジェット燃料輸送列車襲撃事件の被災車である。成田空港への燃料輸送列車を牽引中に反対派によって放火された両機は運転室周辺を焼損、復旧されることなく同年10月15日付けで除籍された。被害の大きさもさることながら、DD51自体に余剰車が出始めていたことも復旧を見送られた一因であろう。(その後両機の補充として、鳥栖機関区から624・625号機が転入している)

842号機

1971年2月に佐倉機関区に新製配置され、現在もJR東日本高崎運転所に現存する車である。

1973年10月に新宿を起点に、総武本線・外房線・成田線のお召し列車に抜擢された経歴がある。その後は他車と同様に千葉周辺の貨物列車の牽引に従事したが、1979年10月10日には、ジェット燃料輸送中の妨害工作により窓ガラスや運転室内の計器類を破壊される事件にも巻き込まれている。

842号機に転機が訪れたのは、1985年夏に行われた佐倉機関区の公開イベントの際である。この時に1エンド側だけが往年のお召し仕様に整備され、これが好評だったたこともあり一躍注目を浴びるようになった。その後車両全体がお召し仕様に整備され、民営化を控えて高崎運転所に転属して現在に至っている。

だが、高崎転属後は他の一般機と区別されることなく運用され、90年代前半頃には台枠のステンレス帯以外は一般仕様に復され、沿線で見てもかなり汚れが激しいことからあまり一般機と識別がつきづらくなっており、かつての経歴を知らない若年層ファンも多かったことから、地元ファンの中でも知る人ぞ知る車両でしかなくなっていた。しかし1994年の全般検査後、イベント列車牽引の際に手すりや煙突を模擬お召的に銀塗装し、再びファンに注目されることとなった。


JR東日本では1997年にお召再整備がなされ、以降非電化区間のお召し列車牽引指定機で、台枠横や煙突、手すりなどがステンレスで装飾されている。(煙突や手すりは高崎転属時はずされ大宮工場に保管されていたものを再装着している。)

かつては90年代後半の「高尾臨」の定番牽引機だったこともあり、現在でもイベント列車などの牽引に用いられることが多い。また、888・895号機も842号機に準じた姿に整備されたが、2019年に相次いで運用を離脱している。

875号機

愛知機関区で末期まで活躍していたDD51の1両である。

当機は三菱重工(三原)で製造され、1973年8月23日付で門司機関区に新製配置、国鉄時代は北九州地区で活躍した。

しかし、貨物列車の大幅削減で数多くの僚機共々余剰化してしまい、国鉄時代末期の1987年1月20日付で除籍され、そのまま国鉄清算事業団の所有物となり鉄に還る日を待つ身であった。

その後、民営化直後の好景気による貨物列車の増発で機関車が不足したため、清算事業団で処分を待っていた機関車の一部をJR貨物が購入して復活EF65 16両・ED75 9両・DD51 4両)させることになり、当機もその1両に選ばれたのである。

1989年3月の復活後は稲沢機関区に配置され、後にA更新工事を施工の上新塗装化されている。

しかしながら、DD51の復活機は当機を含めて僅か4両(874 877 878)にとどまり、これらは2002~2004年頃に相次いで廃車になっている。(同時期に復活したEF65・ED75も全て廃車済み)


運命のいたずらで若くして「死」を宣告されながらも奇跡的に生還し、その後28年にも亘る活躍を続けた当機は2017年8月まで活躍、その後は保留車となっていたが、2019年2月に廃車・解体されて45年に及んだ長き生涯を閉じた。

1006号機

JR北海道に所属し、所謂「北斗星色」に塗られていたDD51の中で最も番号が若かった車両。

2007年に踏切事故を起こし、修理された際に片側のラジエーターのカバーが後期型の2分割のものになっていたのが特徴(もう片方はもともとの3分割タイプ)。

2008年に廃車され、ミャンマーに譲渡された。

1138号機

JR北海道に所属していた車である。2015年3月12日に最終便となった「トワイライトエクスプレス」の札幌~五稜郭を牽引し、さらにその後8月22日の最終便の臨時「北斗星」の札幌~函館の牽引にも抜擢された。つまり、北海道行きの2本の豪華寝台列車の最後を看取った機関車といえる。

1169号機

1976年4月3日に発生した、追分機関区の火災による被災車の1両である。

1975年9月24日付で岩見沢第二機関区に新製配置されたばかりの「新車」であったが、僅か半年で機関庫の火災に巻き込まれて全焼してしまった。被災時点で同型式中最も若い車であり(1170号機の落成は1976年6月1日付)、在籍期間も10ヶ月強(1976年8月4日除籍)と国鉄車両全体で見ても極めて短命な車であった。

この火災で、運用中のDD51型7両(682~684・1079・1103・1144)とDE10型1両(1744)、保存予定の蒸気機関車5両を焼失する惨事になっている。(DD51 1144とDE10 1744は実働8ヶ月、DD51 1103も実働1年の超短命車である)

また、追分機関区が国鉄の蒸気機関車終焉の地(同年3月2日で全運用終了)であったことから、「SLの怨念」と噂をするマニアが、当時少なからず存在したという。

1187号機

重連運転時に本務機の次位に連結された補機の単弁ブレーキが作動するように改良された500番台のうちの1両。

2003年お召し列車を1186号機と共に牽引し、2006年に廃止された寝台特急出雲」の牽引も担っていた栄光の歴史を持つ一方で、1986年12月に起きた餘部鉄橋客車転落事故で転落した客車を牽引していた負の歴史を持つ。

現在は旧津山扇形機関車庫をリニューアルした「津山まなびの鉄道館」で保存されている。


海外への譲渡

日本で廃車になったDD51は一部が海外へ輸出されている。

ミャンマー

2004年にまずJR貨物から譲渡され、その後2016年にはJR北海道からも譲渡されている。

現地の規格に対応させるために改軌(1067mm→1000mm)や運転台の高さの縮小などが行われている。

マレーシア

もともとはベトナムへ譲渡される予定だったJR西日本の車両が、タイ中南部の軌道強化の工事に使用されたのち、マレーシアへと渡った。

なおマレーシアでは基本的に工事用列車の牽引機として使われている模様。

タイ

上記の工事用とは別に2016年にJR北海道で使用されていた1137・1142号機の2両(上記のミャンマー向けのうち、放置されていた車両)がタイの工事会社に引き渡された。

タイの路線を走るための改造はされたが、彼らの手元には薄い日本語のマニュアルしかなく、技術指導などはミャンマーから基本操作の指導が行われただけで、日本からの技術支援は一切なかった。現地に住む日本人に翻訳をお願いしたが、当人は鉄道に詳しくないためにその訳が正しいかわからない上に、技術者からしてもかなり危険な状態で走らせようとしていると指摘されたため、それを知った日本の鉄道ファンがクラウドファンディングによって資金を募ってスタッフの派遣などを行うことになった。

詳しくは↓

https://readyfor.jp/projects/dd51thailand


関連イラスト

緊急燃料輸送列車風格


関連タグ

ディーゼル機関車 DL

DF50 DD53 DD54 DE10

函館本線 山陰本線

派生形式:DD53・DD17→DD19・DD18・911形

 このうちDD18・19・911形は標準軌仕様車

DD18・19の動力台車はDD13の標準軌改造車912形の設計を流用したものを新製している。

計画されたものの製造されなかった形式としては、DE10の3軸台車を本形式ベースの2機関車体に装荷したDF51もある。1250~1350PS機関2基(2500~2700PS)、軸重13~14tと推定されるが、6動軸のため牽引力は911形(低速段)並にあったであろうと推定される。


DT50似て非なるもの


ヤシマ作戦:アニメ映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」での変圧器を輸送するシーンに登場。三重連の先頭に立つのは2021年まで現役だった貨物機の1028号機。

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