開発経緯
1941年9月、T-40の水陸両用機能を廃止して武装と装甲を強化したT-30が制式採用されたが、車体デザインが浮行用のままであり、第37工場設計局のN.A.アストロフ主任技師は陸上専用に設計された偵察用軽戦車を試作した。
開発
試作軽戦車はT-40のシャーシをベースとし圧延鋼板による溶接・リベット止め併用組み立て方式を採用していた。
車内容量を絞り込むことで最大装甲厚が14mmから25mmに向上したが、車重5.8tとT-40とほぼ同じである。エンジンはGAZ-11(85hp)からGAZ-202(75hp)になったが最大速度は44km/hと変わらなかった。武装は20mmTNSh機関砲を装備した。
1941年10月に『T-60軽戦車』として制式採用された。
生産
本車が生産を開始したのはタイフーン作戦の頃で、モスクワ市をめがけドイツ軍が迫っていた。前線では1輌でも多くの戦車が求められ、第37工場はウラルへの疎開ギリギリまで生産準備が進められ、第38工場、第264工場でも生産することとなった。
1941年12月から1942年の秋までに6045輌が生産された。
実戦
偵察任務を目的としたT-60もT-34やKV-1等の数が揃うまでの時間稼ぎのため次々と前線に投入され、1942年1月のドイツ軍の戦闘報告に出現が記載されている。
レンドリースで送られてきたイギリス戦車共々容易に撃破され、戦車兵たちから「二人兄弟の墓」という仇名がつけられた。