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毛利勝永

もうりかつなが

毛利勝永とは、中部・九州地方の戦国武将。豊臣秀吉の家臣の一人で、関ヶ原の戦いでの改易を経て大坂の陣における「五人衆」の一翼を担った。(1578年-1615年)
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概要

  • 生没:天正5年(1577年) - 慶長20年5月8日(1615年6月4日)
  • 主君:豊臣秀吉豊臣秀頼
  • 諱:吉政→勝永
  • 号:一斎
  • 官途名:豊前守

尾張出身の戦国武将で、豊臣秀吉古参の家臣にして黄母衣七騎衆の一人に数えられた森吉成(毛利勝信)を父に持つ。

元服に際し、父・吉成と岳父・龍造寺政家(隆信の嫡男)から一字ずつ取って森吉政、のち毛利吉政と名乗り、その後豊前守に任官。


後に毛利姓を名乗る勝永であるが、毛利元就輝元ら大江姓(藤姓)毛利一族、それに源姓毛利一族で同じ尾張出身の毛利秀頼(斯波義統の三男)とは、いずれも血縁関係がある訳ではない。また後者と名字の発祥の地(相模愛甲郡毛利荘)を同じくする清和源氏義隆流森氏(森可成長可らを輩出)とも、やはりその関連性は定かではない。


生涯

出身地については尾張の他、近江の長浜であるとする説もあるが、いずれにせよ父と同様に当初から羽柴(豊臣)秀吉に家臣として仕え、九州征伐の後父の封ぜられた豊前6万石のうち1万石が与えられた。父子共々姓を、それまでの森から毛利へと改めたのもこの頃の事である。

朝鮮出兵関連では、文禄の役においては父の勝信が戦地に渡海し、勝永は小倉で留守の番を勤める。慶長の役では父と共に勝永も戦地に渡海。第一次蔚山倭城の戦いにて食料未配備で冬将軍が吹き荒ぶ最中、築城も満足ではない状態であった加藤清正が籠もる絶体絶命の蔚山倭城の救援に大将・毛利秀元の麾下、一将として赴き、包囲する朝鮮連合軍五万七千名を相手に交戦。

勝永はこの蔚山倭城の救援部隊の一番隊に所属し敵軍を撃退、更に敗走した明、朝鮮連合軍を追撃し壊滅に等しい損害を与え、これに功を得る。


関ヶ原の戦いでは西軍につき、父に代わって中央で軍勢を指揮し伏見城の戦いで戦功をあげ、毛利輝元・宇喜多秀家より感状と加増を受ける。しかし、この戦いで勝永の小倉毛利軍も大きく被害を受け、軍勢は再編成され安国寺恵瓊の隊に組み込まれた。

しかし、大将の秀元を始め恵瓊や勝永ら毛利軍が吉川広家の策略で展望の利かぬ南宮山山頂に押し込まれ、安芸毛利氏の麾下にある勝永も関ヶ原の本戦に参加できぬまま敗戦を迎える。更に加えてこれもまた広家の手回しで大坂城にいた輝元も退去、さらに居城・小倉城も黒田官兵衛に奪われ、戦うことなく帰ることも出来なくなった勝信・勝永父子は西軍に与した事を咎められ父共々、改易となる。


その後は土佐藩主となった山内一豊の妻・千代を厚遇した事により一豊や弟・康豊の子で後を継いだ忠義の客将となり篤く持てなされていた。

1610年に正室の龍造寺氏が、1611年には父も亡くなり出家した。しかし慶長十九年(西暦1614年)、豊臣秀頼よりの招きを受け土佐から脱走し大坂城に入城。

長宗我部盛親真田信繁後藤又兵衛らとともに大坂牢人五人衆となる。


大坂冬の陣では信繁と共に、早期の出馬を行い畿内の諸大名を味方に付けつつ野戦を行う戦法を主張したが、大野治長ら古参衆によって容れられず大坂城に籠城。西丸ノ西・今橋を守備する。大坂冬の陣では上杉景勝佐竹義宣勢と後藤又兵衛・木村重成勢の間で行われた今福・鴫野の戦い真田丸を守る真田隊の局所衝突(真田丸・城南の攻防戦)以外は大規模な全面的な軍事衝突は発生せず徳川軍と豊臣軍は講和。


翌、慶長二十年(西暦1615年)。大坂夏の陣において講和条件として大坂城の堀を幾つか埋め立てる条件があったのだが、「工事の進捗が芳しくないので手伝ったまで」と、講和条件からかなり逸脱する範疇で全ての堀が完璧に全て埋め立てられてしまった為、大坂城の諸将はやむなく野戦に持ち込むしか手が無くなった。

五月六日の道明寺の戦いにて午前前半戦、八時間に及ぶ奮闘の末、戦死した又兵衛や霧の為に各個撃破されていた大阪方の敗残兵を信繁が糾合すると同日午後、藤井寺村に布陣して勝永は信繁ら諸将と戦線を構築。誉田廟を境界として徳川軍と相対する(誉田の戦い)。ここで先鋒となった信繁は片倉重綱を先鋒とした伊達政宗と交戦するが、局地戦では激戦となりながら最終的にはこれまでの連戦で疲労していた伊達隊を真田隊が押し込んだ上で後退し毛利隊と合流、全体的な戦線は膠着する。一方、正午を過ぎると大坂城に別方面で展開されていた八尾・若江の戦いでの大坂方敗北の報が伝えられ、その方面から包囲される危険から軍主力の撤退命令が届き、勝永は機を見て配備していた備えの鉄砲隊を殿を引き受けた信繁の為に残し、自らは整然と部隊を撤退させた。これは徳川軍の諸将が本腰を入れて追撃しなかった事も幸いした。


翌日の五月七日、天王寺・岡山の戦いでは天王寺口の戦いに参戦、兵四千名を率い四天王寺南門前、徳川家康本陣の眼前である天王寺口に陣を敷き、勝永隊の物見が前年に家康に叱責された汚名を濯ごうと戦意高いあまりに先走った本多忠朝(忠勝の次男)の隊を発見、これを銃撃するや、戦闘の口火が各地に波及し、勝永は一気呵成に天王寺口から突撃し瞬く間に本多隊を壊滅させて忠朝を討ち取り、更に木村宗明勢の加勢も受け、本多隊救援に駆け付けた小笠原隊をも壊滅させ家康の孫娘婿・小笠原秀政(妻の父は松平信康)・忠脩父子を討ち、そのまま勝永は余勢を駆って浅野長重(長政の三男)・秋田実季榊原康勝(康政の三男)・安藤直次六郷政乗仙石忠政(秀久の三男)・諏訪忠恒(頼重の従弟頼忠の孫)・松下重綱酒井家次(忠次の長男)・本多忠純(正信の三男)らが率いる実に十の隊を混乱の坩堝に陥れながら、総数では上だが、個々の数では自軍と同数程の相手の連携の拙さを衝くように各個撃破の形で突破。

勝永と同じく天王寺口の西脇、茶臼山から出馬した信繁は自隊を先鋒・次鋒・本陣など数段に分ける。そして、四倍以上の軍勢を持つ松平忠直(結城秀康の長男)率いる越前勢と天王寺口で一進一退の激戦を続けていたが、「浅野長晟(長政の次男)が裏切った」という虚報に越前勢が動揺するとその期に乗じて数百となりながらも突破。

勝永・信繁ら大坂方はその目覚ましい突破力によって分厚い関東方の布陣を突破するや、徳川の本陣へそのまま猛突撃を加えた。

一方、岡山口でも大野治房(治長の弟)が先鋒の前田利常と交戦しこれを突破。二段目に布陣していた藤堂高虎井伊直孝は大混乱の徳川本陣へと救援に向かっており、さして難なく徳川秀忠本陣へ槍を付けた。秀忠旗本先手の土井利勝勢が崩れこちらも家康本陣と同様、混迷を極める。

初動で圧倒的劣勢に晒された家康本陣は恐慌状態に陥り瞬く間に後退。大阪方は家康をも数里に亘って追い回す。三方ヶ原の戦い以降倒れたことのない家康の馬印を旗奉行が倒した上、近習馬廻り衆も家康を見失い、騎馬で逃げる家康自身も幾度もなく切腹を口走ったという。

しかし数に勝る家康軍は次第に体勢を立て直し始めると攻勢限界点に達し始めた大坂方は次第に包囲され、四度目の突撃を敢行する力を失った真田勢が壊滅し、信繁が安居天神で休憩している折に討たれると勝永の西側の戦線も崩壊し、全方位から攻撃を受ける羽目になる。後一歩で家康の喉頸にと手を伸ばしながら桶狭間の戦いの再来はならず勝永は此処に至って、撤退を決意。八尾・若江の戦いの損害癒えぬ藤堂・井伊及び細川忠興ら三将の隊をさしたる損害無しで突破し、岡山口で敗戦した治房らの撤退も支援し最後の最後まで戦場に残った上で戦線を崩壊させないまま大坂城に撤退を完了する。

この通り、勝永は大坂側の武将で大阪夏の陣の前哨戦から戦い抜き、天王寺・岡山の戦いが開始される戦端を切ってから全体の趨勢が決し全軍が撤収する中、最後まで戦線を保ったまま大阪城に撤退を完了させる名将ぶりを発揮した、正真正銘のチートである。

もっともこの合戦での勝永・信繁・治房達の大活躍には、もはや何も残されていない大坂方と、もはや勝利は目前である関東方諸将との戦意の差もあると思われ、勝永が縦横無尽の突破を成し遂げ、また無事に大坂城に撤退できたのも、彼の野戦指揮官としての優秀さと共に、多くの関東方諸将が今更勝ち戦なのに自らや部下を、自暴自棄のような死兵と化した大坂方との戦闘で危険に晒す事を躊躇し、戦意が乏しかった面も大きいと思われる。

後は炎上する大坂城で秀頼の介錯を仕り、息子である毛利勝家とともに自身も蘆田矢倉で静かに自害したという。

大坂牢人五人衆では最若年であり、豊臣譜代の大名であった勝永が大阪城と運命を共にしたというのも何かの縁であろうか。


氏名生年(西暦)
後藤又兵衛永禄三年四月十日(西暦1560年5月5日)
真田信繁永禄十年(西暦1567年)
毛利勝永天正五年(西暦1577年)
長宗我部盛親天正三年(西暦1575年)
明石全登永禄九年(西暦1566年)?


人物・逸話

勝永の良く出来た人となりがわかるエピソードが多く伝わっている。


・大坂の陣が近付く中で、敗戦した場合妻子に迷惑がかかることで悩んでいたが、妻(継室)は「君の御為の働き、家の名誉です。残る者が心配ならば、わたくしたちはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」といって勝永を励まし、それを聞いた勝永は喜んだとされる。

またそのことを伝え聞いた家康は「勇士の志、殊勝である。妻子を罪に問うてはならぬ」と命じ、勝永の妻子は城内へ招かれ保護されたという。


道明寺の戦いで戦地が霧に飲まれ、信繁・勝永らの援軍が間に合わず又兵衛らが討死した際に、信繁は自身の不甲斐無さから弱音を吐露するが、勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」切腹を思いとどまらせ鼓舞した。


・武勇においても、東軍側の黒田長政加藤嘉明にあの戦闘を指揮しているの誰かと問うた所、嘉明は「貴殿はご存じなかったのか。彼こそ毛利壱岐守が一子、豊前守勝永でござる」と答え、それを聞いた長政は「この前まで子供のように思っていたのに…さても歴戦の武将のようだ」と賞賛と感嘆の言葉を述べたと云う。


・五人衆の中では最年少にもかかわらず、父と二代にわたって豊臣家の譜代であった事から豊臣家の信頼を受けてか牢人衆のまとめ役を務めていたが、ストレスも半端なく頭痛や腹痛に悩まされた。一例として大坂冬の陣で(又兵衛と一悶着ありながら)真田丸を築き散々に敵を打ち破った信繁の活躍の裏で勝永ら信繁以外の将は戦功を挙げられなかった。このため信繁に対するやっかみや反感もあったが勝永は彼らを宥めている。


・夏の陣では上記の通り打ち破った部隊の数を挙げればキリがないほど獅子奮迅の活躍をし、更には大坂城への撤収まで成功させたために、夏の陣の彼を信繁より評価する声も多い。しかし、共に戦国の世においても稀有なほどの活躍を挙げたにもかかわらず、何故か勝永だけ知名度が低く、文人・神沢杜口(かんざわとこう)は自身の祖先が勝永の隊に所属していた事もあってか、信繁の活躍を称賛すると同時に「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と信繁に劣らぬ戦功をたてた勝永の不遇ぶりを嘆いている。


創作作品

前述通りの理由もあり、ほとんど作品において存在自体カットされていたり、出れたとしてかなりの端役という扱いである。

もっとも池波正太郎の「真田太平記」などのように天王寺合戦での本多・小笠原を破った鮮やかな戦いぶりが目を引く作品も存在し、また後藤基次、木村重成が討ち死にした後の大阪方に残された信繁以外の数少ない名将的な扱いは受けている。(それでも信繁の引き立て役が多いが)

また映像化されたNHKのドラマ「真田太平記」では仮面ライダーV3風見志郎などの人気特撮ヒーローを演じ、時代劇では「助け人走る」の島帰りの龍、「暴れん坊将軍」の御庭番薮田助八を演じていた宮内洋が勝永を演じている。


しかし、NHKで真田信繁が主人公の大河ドラマ真田丸の放映が決まった頃から毛利勝永は徐々に日の目を浴びるようになった。

大坂の陣を語るにおいて欠かせない彼は真田信繁と共にテレビなどメディアで取り上げられるようになり、まずはゲームにて、戦国大戦では豊臣方の主人公として、信長の野望では大坂シナリオの主役の一人として、戦国無双では特別な武将として登場した。


そしてNHK真田丸の大坂の陣編に大坂方の主要人物として満を持して登場。「独眼竜政宗」で伊達小次郎を演じて以来、29年ぶりに登場した岡本健一の演技が光り、銃を巧みに操るナイスミドルな勇士として描かれた。肝心の獅子奮迅の活躍は尺の都合でほぼ図解とナレーションとなってしまい、演技シーンは毛利勝永隊が突撃し敵中を駆け抜けるさまを描く短いシーンのみとなった。しかし図解の内容が勝永の赤い小さな駒一騎が、迫りくる巨大な本多忠朝隊の駒を一瞬で打ち破り、幕府方の大量の青い駒が重なる家康の本陣へと突撃し、行く手を阻む真田信吉(信之の長男)隊と小笠原隊の駒を弾き飛ばし、続いて榊原隊、諏訪隊、後方の酒井隊らの駒を薙ぎ倒し、主人公真田幸村の道を切り開くという、ものの一分でありながら彼の活躍を示すには十分すぎるどころかインパクトの強すぎる図解であったため、彼の破竹の勢いを簡潔に解説するナレーションも相まってか、幸いにも彼の無双っぷりを視聴者へと鮮明に刻み込むこととなった。

結果として真田丸以後は彼のメディアの取り上げ方も大きく変わった。小説や雑誌、漫画や、果てはギャルゲーや乙女ゲーにおいても、今や大坂の陣を描く際に毛利勝永真田信繁と共に必要不可欠な存在となった。神沢杜口の言葉から300年余り経った今、彼の評価は十二分に見直されたと言っても過言ではないだろう。


テレビドラマ


真田丸」(NHK大河ドラマ)

演:岡本健一


関連イラスト

毛利勝永毛利勝永

戦国IXA・コンテスト用「毛利勝永」大坂五人衆



関連タグ

戦国時代 戦国武将 大坂の陣

豊臣秀頼 真田信繁(幸村) 後藤基次(又兵衛)

毛利勝信 大坂牢人五人衆


外部リンク

その他もろもろ詳しいエピソードや人物像などはこちらを参照。

毛利勝永 - Wikipedia

毛利勝永とは (モウリカツナガとは) - ニコニコ大百科

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