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伝承

昔、平家が滅んだあとの話。源頼朝残党征伐のために各地に追捕使を派遣し対処に当たった。

(追捕使は読んで字の如しで、逃亡者などを追って捕らえる者。)

その中には下野(栃木県)の那須与一(扇の的あてで有名)に追討の命令を下した。

しかし、病を患っていた資隆(与一の本名。父と同名でもある)は弟の宗久を代理として派遣した。

宗久は早速準備して出陣、日向(宮崎県)椎葉村へと向かった。

途中で馬を乗り捨てるなど苦労したがようやく着いた。

しかし、実際見た光景は落人が協力し合い平和そうに過ごしている光景、どうにも攻め込めない雰囲気だった。宗久は幕府に追討したと嘘の報告をして椎葉にとどまった。

平清盛の孫・鶴富姫を嫁にし、やがて姫は妊娠した。丁度そのころ宗久は帰還命令が出る。

宗久は「男の子なら下野へ、女の子ならここにおいてくれ」といい泣く泣く下野へ帰った。

子どもは女の子であり婿をもうけて婿は那須下野守(なすしもつけのかみ)を名乗り

戦国期に椎葉周辺を支配していたのはこの二人の子孫・・・と伝承上では伝わっている。


よくある悲恋話だが矛盾が生じる。

椎葉に滞在は3年だが帰ったとされる年号を計算すると17年滞在していた事になってしまう。

(元久2年に椎葉へ、貞応元年は17年後である。大切なことなので(

椎葉に伝わる伝説のみに登場する人物である。


余談

・宗久が伝承上の人物とされるのはわかるが実は兄・与一も疑問が多い(そもそも那須氏自体g(


・島津氏に行かせればよかったのにと思いがちだが初代・忠久はまだ鎌倉におり

実質薩摩に入ったのは元寇討伐のさい下向した三代目・久経の時である。

その後の四代目から本格的に薩摩・大隅・日向を支配していた(守護職を得たのは初代・忠久)


関連項目


那須与一・・・兄。2代目当主。病床だったため代わりに向かう事になる。


那須資之・・・兄(与一より上)。のちの3代目当主


鶴富姫・・・妻とされる人物。


平家 日向国 下野国 鎌倉時代 平家の落人 民話 伝承


鎌倉幕府 椎葉村

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