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10.19

じゅってんいちきゅう

10月19日の事。1988年のこの日に川崎球場で行われた、プロ野球ロッテ対近鉄の試合で知られる。
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概要

10月19日の事であるが、通常「10.19」とある場合は1988年同日に行われたプロ野球パリーグ公式戦、川崎球場でのロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)対近鉄バファローズ2004年、合併で球団消滅)第25・26回戦のダブルヘッダーの2試合を指す。既にロッテの最下位は決まっていたが、この試合で近鉄が2連勝すれば近鉄が優勝、一つでも負けもしくは引き分けた場合は西武ライオンズの優勝となる大一番となった。

この日は両球団や西武を含めてパ・リーグ全体にとって激動の一日となった。

10月19日まで

1988年(昭和63年)、この当時は森祇晶監督率いる西武ライオンズが圧倒的な強さを見せ、前年までリーグ3連覇、日本シリーズ2連覇というまさに黄金時代まっただ中であった。対する他の球団のうち、対抗馬の本命だったのが前年こそ最下位だったものの、2年前には最終2戦前まで西武と優勝争いを演じた、「いてまえ打線」擁する近鉄バファローズ(当時はどちらかと言えば投手陣の方が西武より充実していたが)であった。

この年、序盤両チームが首位を争う展開となったが、6月、近鉄の4番を打つ主砲デービスが大麻所持で逮捕されるというまさかの事態が発生。当然のことながら退団に追い込まれ、代わりに中日から獲得したラルフ・ブライアントが大して働かないだろう、という周囲の予想を見事に裏切る活躍を見せ、首位戦線に踏みとどまるが、9月15日の段階でも2位近鉄は西武に6ゲーム差つけられており、当時の西武の強さや残り試合数を考えても、近鉄が引っくり返すのは困難かと思われた。

しかし、西武も勝つが、近鉄がそれ以上のハイペースで勝ち進み、9月を終えた時点で1.5ゲーム差まで詰め寄るが、この年は川崎球場での雨天中止が続き、特に近鉄は対ロッテ戦を9試合を残すこととなった。これが後に大きな伏線となるのだった。

10月22日から日本シリーズが開始されるため、それまでにパリーグの優勝チームを確定させなければならず、この年は例年にも増して強行日程となり、西武は10月に10連戦を戦うが、近鉄はさらにそれを上回る15連戦を戦うこととなり、10月16日に西武が先に全日程を終了する。現在のようにドーム球場がほとんどなく(この年開業した東京ドームのみ)、クライマックスシリーズも存在しなかったので、優勝のかかった大一番の試合の重要度は今とは段違いの差があった。

この時点でのゲーム差は0.5、近鉄の残り試合は4で2位だったが、優勝へのマジックナンバー3が点灯していた。が、点灯してるというだけで近鉄が有利だったわけではなく、翌日の西宮での阪急戦に敗れ、残り試合3でマジックナンバーは3のまま。つまり引き分け一つ許されない「近鉄の3連勝以外は西武の優勝」で、「西武有利だが近鉄の自力優勝は可能で、どっちが勝つかはまだ分からない」という状況で、近鉄は残り3試合を川崎球場でロッテと戦う事になる。

10月18日、近鉄はロッテに12-2で圧勝、翌日のダブルヘッダーで連勝すれば優勝という状況となった。

後に10月19日の試合で知られる事から、さぞ世間では前日までも盛り上がったようにイメージされるが、実際はそのようなことはなく、18日の試合も普段よりは観客が入ったとは言え、1万人あまりで(これでも普段より入ったというレベルである)、近鉄と西武ファン以外、世間の注目を浴びていたとはとても言えない状況であった。なお、世間では当時昭和天皇の容態が悪化しており、自粛ムードが漂っていたという事を考慮しても、当時のパリーグではこれが普通であった。特にこの当時の川崎球場の10月の近鉄戦など、観客より選手(ベンチ入り50人)の方が多いのではないかと言うような状況下で試合が行われており、年間指定席分の水増しがあっても観客数発表で1000人(10000人ではない)とかザラにあった。

10月19日

10月19日 試合開始まで

とても盛り上がらないだろう、と思われた川崎球場での優勝決定戦だったが、この日の川崎球場には主に近鉄ファンが殺到し、球場外まで溢れかえることになる。誰もが予想しなかった、ということはないだろうが、球場にとって予想外だったというのは、ほとんど入らないことを想定して弁当、飲料水などの販売を普段通りに抑えた(ただしこれは前日に近鉄が負けていたら、この日の試合は完全な消化試合となり、大して観客も見込めず普段より仕入れるのを躊躇うというのも無理ない話である)ことでも明らかであった。

ともかく試合自体は予定通り、午後3時試合開始となったが、この直後、プロ野球界は激震に見舞われることになる。この年、近鉄と同じ大阪を本拠地とする南海ホークスダイエーに買収されたが、この日になって突然またも関西のパ球団である阪急ブレーブスオリエント・リース(オリックス)に買収される事が第1試合開始直後に発表されたからである。スポーツ新聞各社も完全に寝耳に水だったらしく、川崎球場の試合に取材の応援で来ていた阪急担当記者が慌てて社に戻る一幕もあった。この日の試合の解説には近鉄と阪急で指揮した西本幸雄が球場に来ており、よりによって優勝決定するかという日に発表した阪急とオリックスには近鉄ファンからの恨みの声も上がった。

第1試合

先発は近鉄・小野和義、ロッテ・小川博。

当時のルールとして「ダブルヘッダー第1試合は延長無し」があった。

先制したのはロッテで、初回に愛甲猛の2ランで2点を先制。対する近鉄はロッテ小川の前に4回まで走者も出せないまで手が出なかった。5回ようやく鈴木貴久のソロで1点返すが、7回にロッテ佐藤健のタイムリーで1点追加、再び2点差となる。
8回、近鉄は1死1、2塁から代打村上隆行の2点タイムリーで同点とし、このまま最終回を迎える、そしてここでもう一度書くが「ダブルヘッダー第1試合は延長無し」である。

延長はなく、9回点が取れなければ近鉄優勝は消えるという状況下、1死から淡口が出塁、しかし代走で出た佐藤純一が次の打者鈴木貴のライト前ヒットでサードコーチャーの指示で本塁突入するが、三本間に挟まれタッチアウト。2死2塁で代打にこの年限りの引退となる梨田昌孝が起用される。敬遠も予想されたが、ピッチャー・牛島和彦はおそらく最後の打席であろう梨田の敬意を表して、あえて勝負にいった。結果はセンター前ヒット、この時も本塁クロスプレーとなったが、間一髪セーフとなり、遂に近鉄がこの試合初めてリードを奪う。

9回裏、すんなり試合終了とはならず、2死満塁までロッテは攻めたが、後一本が出ず、この試合4-3で近鉄が勝利した。

この時、西武球場に優勝が決まれば胴上げをする予定だった西武の森監督や当時のキャプテン石毛宏典などはこの時近鉄の優勝を9割方確信したとされる。
しかし、ロッテにしてみれば勝っても負けても順位が変わらない消化試合で、ここまで来たら「ロッテは負けてくれて近鉄に優勝させてくれるのではないか?」と近鉄ファンならずとも確信に近い思い込みをしてしまうのだが、これはすぐ後に大きな誤りであったことを知ることとなる。

20分のインターバルを経て第2試合開始となる。

ロッテサイドから見た10.19

話を近鉄でなく、思いもかけぬ優勝決定戦の当事者となったロッテサイドから見てみると、この当時はまだ千葉移転前で現在知られるような熱狂的なマリーンズファンは見る影もなく、はっきり書けば12球団1の不人気球団のレッテルを貼られていたと言って良い(アンチの数が多い球団はあるだろうが「好意の反対は嫌悪ではなく無関心」という言葉が正しくそのまま当てはまる状態だった・・・まさにこの日までは)。
落合博満が出ていってからというもの人気選手もおらず、地味で、マスコミに露出することもほとんどなく、加えて本拠地は汚いことで有名な川崎球場(一例を挙げれば、この当時の外野のトイレは男女兼用だった)というのが不人気に輪をかけていた。この年はさらに成績も最下位で、10月は近鉄と18日までに7試合行い0勝7敗という体たらくで、もしも近鉄がこの日、連勝して逆転優勝した場合「最大の立役者はあまりに不甲斐ないロッテ」という図式となるはずで、勝ったら勝ったで西武ファンから恨まれることになったであろうことは想像に難くない。
余談ながら、この10.19を語る時は「1988年10月19日の近鉄ロッテの試合」という出だしになる場合が多く、本拠地ホームチーム優先の記述からいけば、まるで近鉄の本拠地での試合のように見えることがあるが、あくまで川崎球場であり、主催(ホーム)はロッテ側であった。なのでこの試合満員になった所で、近鉄球団に利益が入るわけではなかった。しかしながら、弁当の類は前述した通りほとんど仕入れておらず、チケットにしても実際に球場で売られたのもあったにしろ、内外野の自由席などはほとんどがロッテがばらまいていた年間有効の無料招待券での来場となったため、この日かかった人件費などを差っ引いた場合、ロッテ側とてそれほどの黒字にはならないはず・・・であった。
しかしながら、球団に利益が入る手段はチケットや飲食物の販売だけではなく、この時点では到底ロッテ球団も想定はしてなかったであろう、副収入が転がりこむことになる。

第2試合

先発は近鉄・高柳出巳、ロッテ・園川一美。

9回まで

18時44分、第2試合試合開始。先制したのはまたしてもロッテ、主砲・・・とは言えない元メジャー首位打者・マドロックのホームランであった(この年の成績は打率.263本塁打19本、当然ながらこの年限りでクビ)。
一方の近鉄はまたも5回まで先発園川の前に抑えられていたが、6回球界の紳士オグリビーのタイムリー、7回には吹石徳一(なお、娘は女優・タレントの吹石一恵。ちなみにこの年限りで引退でありこれが最後の試合ともなった)がソロホームランを放ち、続いてこれも本塁打とは縁の無い真喜志もソロを放ちこの試合初めてリードする。

7回には西村徳文(元ロッテ監督)のホームランもあり、再びロッテが追いつく展開となる。8回、この年途中入団のブライアントが出場74試合目にして34号本塁打(このペースは当時の130試合制でフル出場すれば59本塁打で、当時のシーズン本塁打日本記録の王貞治の55本を抜くハイペースであった)を放ち再逆転、しかし、8回裏この年阪急の松永浩美と激しい首位打者争いをして(この後の試合で11打席連続四球などもあった)おり、打たないわけにはいかなかったが、その高沢に抑えで登板した阿波野がまさかの本塁打を打たれ、スコアは4対4となる。

余談だが、この試合を近鉄の地元関西で放映していたのは大阪の朝日放送だった。しかし、キー局であるテレビ朝日でも通常放送の合間に川崎球場の中継を挾んで試合の状況を伝えた。結果、テレビ朝日にはこの試合を放映しろという電話が殺到したため、9時にこの前週始まったばかりで第2回の「さすらい刑事旅情編」を急遽中止して川崎球場の中継を全国に流すこととし、「ニュースステーション」の始まる10時には冒頭久米宏が「お伝えたいニュースは山ほどありますが」と前置きして中継続行を宣言。この時の「川崎球場が大変なことになっております!」というセリフは後に10.19を象徴する名台詞として記録されることになる。
前述した思いもかけぬ副収入とはこの事(放映料は基本的にその試合を開催している球団に入る)であった。

この試合、第1試合のような延長無しの9回打ち切りのルールこそなかったが、当時は「9回を終えて試合時間が4時間を越えれば新しいイニングに入らない」というルールが存在した(この後、紆余曲折しながら2011年東日本大震災までは12回までは必ず行うことになっていたが時間制限がなくなったのはこの試合がきっかけであった)

22時時点での試合時間、3時間16分。

運命を分けた9回

9回表、2死二塁から新井宏昌の三塁線を抜けるかというあたりをサード水上のファインプレーで阻む、この試合の実況・安部憲幸はこの好プレーに対し「ディス・イズ・プロ野球」と表現。勝っても負けても最下位が変わらない、ロッテ選手の頑張りに、いつしか近鉄優勝させてやれよ、ロッテ空気嫁という声も薄れつつあった・・・はずだった。

9回裏、1点取られればジ・エンドという状況となった。

この試合の運命を分けたと言ってよいプレーが起こったのはこの直後である。状況をこの回のロッテの攻撃の最初から言えば、先頭古川出塁、袴田の送りバントを阿波野と梨田が交錯して内野安打。無死一、二塁、阿波野は牽制球を二塁に投げる、大石がジャンプして取り古川にタッチ、この時古川の足が塁から離れていたとして、塁審はアウトの判定、ここで抗議にロッテ有藤監督が抗議に出る、この時点での試合時間3時間30分、近鉄にとっては1分でも時間が欲しい場面で有藤は9分間抗議をする。判定は覆ることはなくランナーアウトとなり、この回ロッテは無得点。とにかく試合は9分進んだ。

10回、最も短い消化試合

10回表、先頭ブライアントのセカンドゴロの送球がそれ、出塁。続くオグリビーは三振(これが現役最終打席となる)、続く羽田耕一の打球、本来セカンド抜けるかという打球をセカンド西村が予め守備位置を代えており、正面をつくあたりとなった・・・のは裏話があり、実は西村は9回の有藤の抗議もあって、近鉄に勝たせてやりたい心情となり、羽田は打球を引っ張ると予想して、守備位置変更となったが、結果としては近鉄(と西村)に裏目となる。ともかくこれが併殺プレー、10回表は終了、22時41分のことであった。

試合開始時間は18時44分であり、この時点での試合時間は3時間57分であり、厳密には4時間ではなかったが、10回裏を3分で終わらせるのは不可能であったが、近鉄ナインはそれでも3分で終わらせようと、加藤哲郎も投球練習をしないままに登板したが、22時44分経過、この時点をもって完全に近鉄の優勝はなくなり、西武ライオンズのリーグ4連覇が確定した。試合はそのまま引き分けに終わる。試合終了時間22時56分、12分というあまりにも短い消化試合となった。

人はこの試合をいつしか「10.19」と呼び、後世に語り継ぐことになる。

試合終了、その後

この試合は前述したようにテレビ朝日が異例とも言うべき試合途中からの全国中継となった。そして中継はCMカットの放送となり、CM収入が柱の民放としてはギャンブルとも呼べるシロモノでもない賭けの中継であったが、関西46%、関東30%という視聴率が結果として残ったことを記しておく。

その後、となるとこの壮絶の死闘のせいでもないだろうが、その後のそれぞれの人生においても壮絶だった選手も少なくなく、第1試合偵察メンバーに名を連ねたロッテのエース・伊良部秀輝は後に阪神で優勝の美酒を味わうも、引退後は壮絶な人生を送りアメリカで自殺。2004年には第1試合のロッテ先発小川博がプロ野球界きっての汚点を残す事件を起こし、5月にはこの試合に近鉄の選手として出場し、後の引退の時もこの試合を「思い出」とまで語った近鉄コーチ・鈴木貴久が急死。そして近鉄バファローズ自体もまさにこの日誕生したオリックス(当時まだブレーブス、ブルーウェーブとなるのは1991年)と球団合併し消滅することになる。
監督だった仰木彬も翌年合併により誕生したオリックス・バファローズの監督として指揮を取るものの、シーズン終了後に逝去。

ロッテ球団にとっては近鉄のおかげで、放映権料が入ったりまさに近鉄さまさまの一日となったが、有藤監督の抗議などもあって「悪役」「汚名」の名で知らしめたこととなる。しかしながらこの試合が感動的になったのもロッテ選手が簡単に勝たせようとはさせなかった姿勢あってこそ、というのは間違いなく(第2試合近鉄圧勝の展開では全国放送になったかは微妙である)、近鉄ファンを含めて概ね10.19に関してロッテ選手への非難は少ないものであった(ただ一人有藤監督だけが汚名を被ったというのも影響しただろうが)。
めったに満員とならず、後に「テレビじゃ見れない川崎劇場」と自虐CMを流すほどだったが、翌年、村田兆治が200勝をかけて登板した試合は日テレ系列で全国放送され、今度こそ想定内の大入り満員となった。村田は好投し、9回を投げきり見事200勝達成・・・したわけではなく、同点のまま10回まで投げきったが、延長力尽きて勝つこと叶わなかった。ちなみに、この時の空気の読めない対戦相手は、ここまで書けば予想もつくだろうが近鉄であった。
そしてロッテは1992年に千葉幕張新都心に出来た新球場マリンスタジアムに本拠地を移転。その後熱狂的なマリーンズサポーターが増えたのは移転からもうしばらくあとのことで、弱小不人気球団のレッテルを完全払拭するのは2005年に阪神を総得点差33-4で完全撃破し日本一になるまで待たねばならなかった。

1989年

翌年のパ・リーグは、近鉄と西武を加えてオリックスの3球団によるこの年以上の激戦となり、西武絶対有利の状況下で10月12日に西武球場で、西武対近鉄ダブルヘッダ-が行われ、ブライアントの奇跡の4連発もあり西武を粉砕し、10月16日、近鉄がリーグ優勝を果たす。

詳細は10.12を参照

その他

この試合のビデオについては、Number(文藝春秋)などが発売していたが、試合を完全に収録したものはない。
このため、現在でも発売が望まれるが、バファローズが消滅していることもあって権利関係がややこしいことや、先述の通り出場選手の一人である小川博が現在無期懲役で服役中というのも影響していると言われている。

この当時、インターネットと呼ばれる代物は一般的に知られておらず、当然ながら2ちゃんねるの影も存在しなかったが、なぜか現在でも2ちゃんねるの野球実況板では10月19日になると「川崎球場近鉄対ロッテ」のスレが立つことで知られ、当時を再現した(実際の試合を基にした)架空実況スレとなっている。割と盛況だが、当然ながらスレ住人の平均年齢層は高いが、当時を知らない人間でもそれなりに楽しめる展開となっている。

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10.8

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