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Bv155

びーぶいいちごーごー

Bv155はメッサーシュミット社によって計画され、なんやかんやあってブローム・ウント・フォス社が完成させた高高度戦闘機。シュッとした胴体とそれに見合わない長大な主翼が特徴である。
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概要

Bv155は1942年にメッサーシュミット社によって計画された高高度戦闘機で、なんやかんやあってブロームウントフォス社が完成させ、試験飛行にまで達したが、終戦により実戦に投入されることはなかった幻の高高度戦闘機


メッサーシュミット社で

 アメリカの開発したB-29スーパーフォートレスの性能推定値は1942年初頭にはドイツ軍の上層部に届いていた。B-29スーパーフォートレスがドイツに飛来した際、ドイツ軍戦闘機がうまく性能を発揮できなくなる高高度に飛来すると予想されたため、要撃や迎撃に急遽、高高度戦闘機が必要になった。これに目をつけたのがメッサーシュミット社だった。

艦載機として

 話は少し前に戻り、1942年。メッサーシュミット社は当時建造中だった空母グラーフ・ツェッペリンに搭載するための艦載機の計画を進めていた。これはMe155と命名されていて、DB605Aの搭載を計画し、胴体は基本的にBf109Gの流用だが、主翼は折りたたみ式の完全に新規設計のものを使う予定だった。Me155の詳細設計は1942年2月までに完成したが、空母グラーフ・ツェッペリンに目を向けてみると、どうも制作作業の雲行きが怪しくなってきている。メッサーシュミット社はとりあえず詳細設計の完成を報告したが、RLM(ドイツ航空局)はグラーフ・ツェッペリンはもう少しで完成するだろうからMe155を棚上げしておいてくれと言ってきた。

急降下爆撃機として

 メッサーシュミット社は言われた通り待機していたが、なんとなくグラーフ・ツェッペリンがこのままものにならずに終わるんじゃないかと思っていて、念のため、1942年11月にMe155の急降下爆撃機バージョンを計画して提出しておいた。これで艦載機計画の方は御陀仏になってもこっちを採用してもらえば、詳細設計まで決めたMe155を捨てることにならずに済むと考えたのであろうか。

 これは「Me155A」と指定されて艦載機用の装備は全て取っ払い、SC1000爆弾1発を搭載できる単座急降下爆撃機として計画を進める予定だったのが、RLMの上層部に「急降下爆撃機Ju87あるしやっぱいいや」と突っぱねられてしまった。それでも不安なメッサーシュミット社が目をつけたのがB-29スーパーフォートレスに対する脅威というわけだ。

高高度戦闘機として

 1942年の終わり頃になると、B-29スーパーフォートレスの脅威はいよいよ現実的なものになってきていて、メッサーシュミット社はMe155を高高度戦闘機として設計し直そうと考えた。メッサーシュミット社は1942年5月に開催された「特別高高度戦闘機」について話し合う会議でこの高高度戦闘機計画に興味を示していて、すでにMe P.1091という高高度戦闘機の計画を進めていた。メッサーシュミット社はP.1091も計画しつつ並行して高高度戦闘機型のMe155を計画した。

設計

 これは「Me155B」と指定され、メッサーシュミット社はエンジンにDB628(2段式スーパーチャージャーを増設したDB605A)を使用し、クーラー、与圧キャビンを搭載した高高度戦闘機「Me155B-1」を計画した。この時点では、一応生産性も考慮してか、垂直尾翼はMe209から、水平尾翼と胴体下部はBf109Gから流用できるようになっていた。

 しかし、使用予定のDB628はまだまだ未発達なエンジンで、1942年5月にBf109 V50V54にDB628エンジンを搭載させての試験が行われたばかりだった。この試験ではこの2機のBf109の上昇限度が15,500mまで向上したが(Bf109G-6の上昇限度は12,000m)、設計陣はDB628を使用するのはリスクが大きい考えて、DB603Aに排気ターボ過給機(排気ガスの残存エネルギーを利用したタービンで駆動する過給機のこと。過給機なしの場合と比べて大きい出力増を得られる)を装備して使用することとした。

 排気ターボ過給機にはTKL15が選定され、与圧キャビンの後方に収納することにすると、胴体を延長する必要があった。ただ、ただ胴体を延長するだけで十分だったはずなのに、ここでメッサーシュミット社は何を血迷ったか胴体を延長するとともに主翼もMe155、155Aの時と比べてだいぶ延長し、延長した主翼下に8個に分割して小型ラジエーターを置くといういかにも失敗しsいかにも革新的な設計を取り入れた。このラジエーターはのちに4個に減じられるが、奇怪な配置には変わりなかった。

その後

 1942年の残りの時間と8ヶ月を使ってMe155Bの計画はゆっくり進められていった。ちなみに空母グラーフ・ツェッペリンは1943年2月に建造中止になっており、メッサーシュミット社の行動は正解だったようだ。しかしメッサーシュミット社はMe P.1091や他の戦闘機の方に本腰を入れ始めたようで、Me155はどんどん疎かになっていってしまった。

ブローム・ウント・フォス社への移管

 1943年8月になってRLMはメッサーシュミット社が様々な機体の生産や設計に忙殺されているとして、Me155Bの設計をブローム・ウントフォス社(以下BuV社)に移管することにした。実はBuV社はMe155が高高度戦闘機として計画し直されたあたりからMe155計画にちょっとだけ参加していて、メッサーシュミット社がP.1091含む他の戦闘機開発に忙殺され始めたあたりでもうMe155計画は実質BuV社が進めているような状態になっていた。Me155計画がBuV社に移管されたのにもこういった理由があったのだ。

BuV社での設計

 移管されたこの時点でMe155B-1は新規設計の胴体とそれに見合わない長大な主翼と翼下に配置された4個の小型ラジエーターを備えた奇妙な飛行機だった。新たに移管されたため、「Me155B」は「Bv155A」と再指定された。BuV社メッサーシュミット社から課されていた制約から解放されて、自分たちで自由にBv155をいじくり回すことが可能になったのだ。

 1943年9月にBv155Aの5機の試作機発注がよこされた時、BuV社はBv155の主翼、胴体、尾翼、ターボ過給機の収容、着陸装置などほぼ全ての機構が不十分で、完全でなく、全体的に再設計の必要があると判断していたところだった。主翼下に配置されていた4個のラジエーターを両翼の屈曲部上に2つに分けて配置してみたりしたが、BuV社はBv155Aの設計を全て廃し、新たに「Bv155B」を開発した方がコスト的にも賢明であると判断し、リヒャルト・フォークト博士主導のもと、Bv155Bの開発に取りかかった。

 Bv155Bでは、長大な主翼は層流翼になり、ラジエーター配置も屈曲部上から屈曲部下に2つに分けて配置されることになった。、右翼のラジエーターはエンジンの潤滑油冷却に、左翼のラジエーターは熱交換器のために使用された。1944年の春までにBv155Bの詳細設計が確定し、発注された5機のうち、1機目に取り掛かる準備がやっとできた。また、1945年半ばまでに5機全機の製作の完了を命令された。

発展型

 ここで、Bv155の発展型としてBv P.205と言う戦闘機の計画が持ち上がった。Bv P.205は当初Args AS413(液冷H型24気筒4000馬力級エンジン)と言うエンジンの使用を考えていたが、のちにDB603Uとなった。DB603Uは環状ラジエーターがすでに組み込まれているため、両翼の大きなラジエーターを必要とせず、重量削減や抗力低下による性能増加を望めるとして「Bv155C」の正式名称を付した上で認可された。BuV社はBv155Cの実機の製作も視野に入れなくてはならなくなり、それならBv155Bの試作機を作るときにまとめて作ってしまえと、製作する試作機の数を7機に増やし、V1からV3は(「Versuch(試製)の略。ドイツ軍の機体の試作機には必ずV番号がつく)Bv155Bを、V4からV7はBv155Cを製作することになった。

試作機

 Bv155B V1は1944年12月に完成する予定で、8月初旬には実物大モックアップが完成した。そのあとはBv155B V1の制作が可能な限り迅速に進められた。1944年9月にはスケジュールの改訂があり、1944年12月にBv155B V1を、1945年1月にBv155B V2を完成させるとともに、Bv155Cの試作機の数を30機まで引き上げた。制作は順調に進み、1944年のクリスマス直前にBv155B V1が完成した。V1はしばらく地上試験を行い、初飛行は1945年1月中旬に予定された。Bv155B V1完成の段階で、Bv155 V2は半分が完成していたが、V3は30%しか進んでいなかった。

 1945年1月初旬、Bv155の生産を分散化する方法とその場所を決定する会議が行われた。生産会社にはフォッケウルフ社とドルニエ社が好ましいとされたが、両社は自分たちの仕事で手一杯で、1945年3月まで手が空かなかった。その頃、BuV社はBv155B V3に関する作業を全て中止し、Bv155CとなるV4の作業に全力で取り組むことを決定した。

飛行

 Bv155B V1(W.Nr. 360051)は爆撃の激化により、ドイツはハンブルク市のフィンケンベルダーと言うところに建てられたハンガー2と言う名の新たな格納庫に移され、Bv155Bの保管、試験などもそこで行うことにした。初飛行は1945年1月中旬に予定されていたが、このために2月8日にズレ込んだ。2月8日、Bv155B V1はHelmut Wasa Rodigの操縦により、初飛行を果たすことができた。しかし、この初飛行は冷却剤の漏れにより、予定の飛行時間より短縮されてしまった。その後はなんの問題も起こすことなく着陸することができた。修理はすぐに行われ、2日後の10日に再び試験飛行をすることが決定された。

 Helmut Wasa Rodigはこの1回目の試験飛行で以下のことを報告した。

1)速度計の不調。

2)方向舵ペダルの軸受の剛性の低さ。また、方向舵ペダルの軸受が下を通る冷却液チューブと接触していたため、方向舵ペダルが重い。

3)ブレーキペダルが椅子に深く座った場合に遠く、足が届かない。座席にクッションを追加すればパイロットは数センチ前方に座ることができる。

4)キャノピー投棄システムは、パイロットが座席に座りベルトを締めた際に発動した。こうした偶発的なアクシデントに対してより適切に固定されている必要がある。

5)ブレーキの効きが不十分。

6)無線を使用した通信が困難で、飛行時にはほとんど不可能。

7)冷却液の漏洩は右翼のラジエーターの構成部品が脱落したことが原因である。

 10日の試験飛行は、2日間続いた雨によって地面がやわらかくなっていたが、無事離陸することができた。また、冷却液が漏れることは無くなったが、代わりに主脚の蓋が完全に閉まらないという不具合が出た。これはラジエーターに入る空気の流れを阻害するため、早急に解決しなければならない課題だった。

 2回目の試験飛行でHelmut Wasa Rodigは以下のことを報告した。

1)Bv155の非常に広いスタッド(6.702m)は、完全な軟着陸を行なっていても、グラウンドループ(動力と尾輪式着陸装置を備えた飛行機に起こりやすい現象。機首方位が機体の移動方向と異なる場合、着陸脚に横方向の力がかかる。この力が重心より前にある場合、トルクなども相まって結果として重心を中心に機体が回り始めてしまう。こうなると、もう操縦が効かなくなり、これによって主脚が折れたりして、事故を起こすことになってしまう)を起こす傾向のある主な原因である。

2)着陸時に主脚の緩衝装置が完全に圧縮されてしまい、潰れてしまった。舵類の摩擦が大きく、舵が重かったがために迅速な反応は不可能であった。

3)両主脚の蓋が完全に閉まらず、また左側の主脚の蓋が損傷した。

4)着陸装置表示器が着陸装置の蓋の実際の位置を示していなかった。

 この飛行の後、Bv155B V1はハンガー2に戻され早急に修理が行われた。修理とともに、パイロットが操作できる特殊な測定装置も追加された。また、特定の飛行状態を記録するために半自動のカメラも装着され、このカメラは最大40枚の写真の撮影が可能だった。こうすることで、Bv155の飛行情報や飛行特性を記録することが可能だった。

 1945年2月26日、Bv155B V1の3回目の飛行試験が行われた。この日も滑走路の地面が少し柔らかくなっていたが、問題なく離陸することができた。Bv155のその短い離陸距離は魅力的であった。だが、離陸後、またも主脚の蓋が閉まらないと言う不具合が起き、3回の試行でなんとか閉めることができた。冷却水は107℃〜110℃の間を一定で保っており、エンジン加熱はそこまでひどくなかった。この3回目の飛行試験は比較的順調に進んだが、飛行後の検査で、燃料タンクに燃料漏れがあったこと、主脚近くの翼桁に亀裂が入っていたことが判明した。これは主脚の蓋を無理やり閉めようとしたためである。

 3回目の試験飛行でHelmut Wasa Rodigは以下のことを報告した。

1)離陸時、着陸脚を引き上げるためにスイッチを押したが、何も起こらなかった。2回目の試行で着陸脚は引き上がったが、ラジエーター側にある着陸脚カバーの方が先に閉まってしまい、主脚が収納されずにラジエーターのエアインテークの前で停止してしまった。3回目の試行により着陸脚は完全に収納されたが、その過程で着陸脚の蓋に追加の損傷が生じた。

2)カメラの動作中に空対地通信による強い干渉に遭遇した。

3)方向舵ペダルが冷却水管に接触するという問題が未解決のままである。

4)TKL15ターボ過給機に起こった不特定の問題。

 1945年3月が到来し、BuV社はBv155B V2の完成に向けて邁進するとともに、Bv155B V1の修理と改修に忙殺された。1945年3月7日に、Bv155B V1の飛行時間に関する検討がなされ、3月中に10時間、4月に15時間の飛行をすることが決定され、そのほとんどの飛行は高高度性能を確認するために14,000〜16,000mと言う驚異的な高度で実施される予定だった。しかし、26日以降のこれらの飛行が行われたのかは残念ながら不明である・・・。

 4月、Bv155B V1の修理、改良と並行してBv155B V2の製作作業は細々と進められた。また、Bv155Cは未解決の問題が多すぎて試作機制作の進展はほとんどなかった。

占領

 1945年5月3日、ハンブルク市はイギリス軍に占領された。

 もちろん、フィンケンベルダーのハンガー2にもイギリス軍の手は及んだ。以前からBuV社の航空機に強い関心を持っていたイギリス軍はハンガー2の外でモスボールとなっていたBv155B V3(75%まで製作されていた)と中にあったBv155B V1とまだ未完成であったBv155B V2を鹵獲した。Bv155B V1は飛行可能状態にあったため、主翼と胴体にイギリス空軍の国籍マークを描き、シリアルPN820を適用後、Bv155の飛行を行った。これは、試験のための飛行とも、飛行可能状態にあったため、飛ばしてイギリス本国にまで送る予定だったとも言われるが、離陸直後にこのBv155B V1は墜落した。イギリスは、唯一飛行可能なBv155を墜としてしまった。

戦後

 Bv155B V1の墜落原因は不明だが、イギリス軍は残ったV2とV3をイギリス本国のハンプシャー北東部に位置するファーンバラのRoyal Aircraft Establishment(王立航空機関、RAEと略される)に送った。RAEでは、唯一飛行可能であったBv155B V1を無くしてしまったがために、鹵獲した物の中で一番完成状態に近かったBv155B V2を完成させてしまい、飛行試験をすることが考えられた。しかし、戦後の予算の削減を受け、この計画はなくなってしまった。結局、1945年10月から11月にかけてBv155B V2とV3は展示されて、その後V2はNo.47 M.U.(イギリス空軍の修理組織)に転送されたのちに、アメリカへの移送が行われた。

アメリカで

 V2は、アメリカでFE-505との指定がされ、オハイオ州ライトフィールドで検査が行われた。その後イリノイ州パークリッジを経て、ライトパターソン空軍基地に到着、そこで数年保管され、新たに「T2-505」の指定を受けた後に最終的にメリーランド州スートランドのポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設の無期限保管場所に移送された。このBv155B V2は今でもこの保管施設に現存している。


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