需要
本名は飯塚高之
得意技は後に魔性と言われるようになったスリーパーホールドやアイアンフィンガー・フロム・ヘル(鉄製のグローブをはめての地獄突き)他。
1985年、新日本プロレスの門を叩くがレスリングや柔道といった格闘技の経験が無く、翌年の1986年11月2日野上彰(現AKIRA)戦でデビュー。
1993年野上とともに『J・J・JACKS』というユニットを結成するも、本人の性格の地味さや自己アピールの乏しさもあって、以後は中堅のポジションに甘んじるようになった。
2000年1月4日、橋本真也と組んで小川直也、村上和成組を迎え撃ったタッグマッチでスリーパーホールドで村上を締め落としたことがきっかけからブレイク。
この年は初の『IWGPヘビー級王座』挑戦や『G1タッグリーグ戦』では永田裕志と組んで初優勝、また同年のプロレス大賞では技能賞受賞と、2000年は飯塚が最も輝きに満ちた年となった。
しかし2001年、全日本プロレスとの対抗戦で長井満也の放ったキックにより負傷し長期欠場、翌年復帰。
その飯塚を長期欠場に追いやった長井は後に全日本を離脱、星野勘太郎が総裁を務めるプロレス結社『魔界倶楽部』の刺客『魔界5号』として飯塚の前に再び立ちはだかった。
2003年1月4日の東京ドームでの一戦から長井との抗争が勃発。その後3番勝負で2勝1敗と勝ち越し、約2年にまわる因縁に決着をつけた。
2008年ヒール軍団 G・B・H 勢に痛めつけられた天山広吉を救出したことからタッグを組む。自ら身代わりとなってG・B・Hのイス攻撃から天山を守る等の行為から“友情タッグ”として注目された。
しかし、その友情タッグも長くは続かず、飯塚の“変貌”により突然終わりを告げる。
ヒール転向後
2008年4月27日、同タッグで真壁刀義、矢野通組が保持するIWGPタッグ王座に挑戦。
血まみれの天山からタッチを求められるもこれを一歩下がるような素振りを見せて拒否。ついにはスリーパーで締め上げて王者組に加担、試合後も真壁、矢野らと共にリング上で天山を痛めつける。”ヒール飯塚”誕生の瞬間であった。
その後、頭は丸坊主、口に鉄製のマウスピースをはめ込む等、凶々しい形相と化した。
そして、ヒール飯塚を象徴する技アイアンフィンガー・フロム・ヘルを使い始めたのもこの頃である。
以降、デスマッチを敢行する、入場時には観客席を荒らし回る、ついでに実況席も襲う(
後述)等、日々その狂乱ぶりを発揮している。
野上アナとの抗争
2010年の8月8日新日プロ真夏の祭典G1 CLIMAXの中で実況席にいた、テレビ朝日の野上慎平アナウンサーが突如飯塚に襲撃されたことから始まり、以降、実況中に襲われては、衣服を破られ半裸でネクタイの状態が一部のお約束事となった他、後楽園ホールのシャワー室まで連れて行きずぶ濡れにする、さらに、両手を後ろに拘束したうえに青と白スプレーで顔をドラえもんのようなペインティングを施す等、今日に至る長き抗争が繰り広げられたのである。