概要
明治4年(1872年)~昭和20年(1945年)まで存在した日本の海軍組織。
1945年(昭和20年)12月1日付を以て解体され消滅。組織は第二復員省に引き継がれた。掃海部隊等の実働部隊を含む人員や組織の大半は海上保安庁保安局掃海課、保安庁警備隊を経て海上自衛隊に引き継がれた。
海軍の体制
海軍省及びそのトップである海軍大臣が軍政を担当していた。
一方、実際に軍を動かす権限は、天皇直属の『海軍軍令部』という機関が握っており、海軍軍令部総長が最高決定権を有していた。
軍令部と参謀本部
注意すべきなのは、大日本帝国では『参謀本部』が、大日本帝国陸軍のみの最高命令機関であったことであり、当然、海軍担当の部署は存在しなかった。これはよく言われる陸軍と海軍の仲の悪さが表面化したものと言われることがある。海軍の最高命令機関に当たる『海軍軍令部』が別個に存在しているのも、海軍が陸軍と同じ空気を吸っていたくないから…とする説もある。
かつては参謀総長(陸軍)の命令に軍令部(海軍)が従う形の体制であったが、軍令部がこれ良しとせず、参謀総長と軍令部総長が対等の権限を持つようになった。しかし、これが結果的に帝国海軍と帝国陸軍の意思疎通を今まで以上に困難にする要因となった。こうして、異なる価値観をそれぞれ有する組織が、並行して存在する事態となった。
大日本帝国海軍の気風
イギリス海軍を倣った組織であったため、将校は過酷な長期航海でも耐え忍ぶことができるようユーモアの精神を重視し、「ユーモアを解せざる者は海軍軍人の資格なし」と言われていた。これは大日本帝国陸軍が模範としたドイツ帝国プロイセン軍とは正反対と言える。
一方、日本海軍の下士官兵には非人道的ないじめやしごきが横行していたという暗部もある。徴兵された水兵には海軍精神注入棒による過酷な制裁が連日行われ、気絶するまで殴られることも日常茶飯事だったという(ちなみに、このような体罰もイギリス海軍の悪しき伝統に学んだものであった)。旧海軍で何度も発生した原因不明の軍艦の爆発・沈没事故は、こうしたいじめの恨みによるものという噂もある。
ちなみに、日本ではもともと体罰を戒める文化があり、日本陸軍では体罰が禁止されていた。もっとも、シベリア出兵や満州事変の泥沼化で軍紀が緩むと共に、陸軍でも体罰が横行するようになっていったが。
なお、海軍は陸軍以上の極端な階級社会であり、士官と下士官兵には食べるものから居住空間まであらゆる点で断絶していた。士官クラスはホテル並の快適な個室があてがわれ、食事は軍楽隊のオーケストラ演奏つきのフルコースであったが、下士官兵は窓も空調もない暗く蒸し暑い船底で三段ベッドやハンモックに押し込められ、食事は長椅子・テーブルに詰め込まれてあわただしくとっていた(ただし、これは主に戦艦や空母などの大型艦の話。潜水艦や水雷艇・駆逐艦にそこまで極端な待遇の差はなく、家族的な雰囲気があったという)。
大艦巨砲主義の起こりとその終焉
帝国海軍は、その黎明期に起こった日露戦争の日本海海戦において、ロシア帝国のバルチック艦隊を大口径の大砲を搭載した戦艦で以て撃破。当時、世界最強とも言われたロシア海軍が誇る艦隊を殲滅したことは世界に衝撃を与え、この戦争での日本の勝利を決定付けた。この海戦を指揮した、当時の連合艦隊司令長官東郷平八郎大将(後に元帥)は英雄となった。
日本海海戦での勝利は、その後、帝国海軍が大艦巨砲主義を推進する大きな要因となった。大艦巨砲主義とは、「巨大な艦艇に巨大な砲を搭載して敵を撃滅する」という戦略思想である。この思想に基づき、日本は数々の大型艦艇を建造し、世界でも有数の海軍大国として成長していった。
しかし、第二次世界大戦の時代に入ると、海上での戦闘では、空母を主体とした航空戦力の展開が重要なものとなっていった。
航空機主体の戦術を発案したのは他ならぬ帝国海軍であり、事実、マレー沖海戦での英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズの航空機による撃沈などで、この新たな戦術の有用性は世界的に認められるものとなった。
だが、その一方、東郷平八郎以来の大艦巨砲主義の伝統を頑なに守る派閥の影響力は依然として根強く、全ての側面で海軍が方針転換を行うには至らなかった・・・とよく言われるが、これは正確な評価ではない。
確かに、世界最大の戦艦大和が完成する頃には、もはや戦艦による砲撃戦の機会はほぼなくなっていた。そして、大和は沖縄沖で米軍の航空部隊による攻撃で沈没するのである。帝国海軍自身の手で確立された航空戦術が、よりにもによって敵国に用いられ、大艦巨砲主義に終止符を打つ形となった。
ただし、日本の建艦計画は開戦直前の1941年11月に整理されており、この時大和型3番艦『信濃』、4番艦(仮称111号艦)の建造は既に中止されている。そして解体待ちの信濃の船体が空母に転用されることが決定されるのは有名なところである。
それどころか開戦直後、雲龍型は一気に6隻が追加オーダーされるのである。
他には、秋月型駆逐艦、松型駆逐艦、伊400型潜水艦、伊200型潜水艦と、日本の建艦計画は防空艦と潜水艦一色に染められる。
唯一艦隊型の軍艦として完成したのは軽巡洋艦阿賀野型4隻だけだった(艦隊型駆逐艦としては他に甲型駆逐艦と丙型駆逐艦の建造が行われている)。
さらにミッドウェー海戦の敗北で航空機の恐ろしさを嫌というほど再認識させられた後は、手持ちのすべての戦艦が空母改装候補の対象になるのである。結果、そこそこ高速でなくなると空母の運用に困る、という理由で金剛型・長門型が対象からはずされる。またアメリカが戦艦を新造しているのも事実だったし、当時空母は夜間や悪天候時に無力になるため、これに対抗しうる大和型が外されたのは当然だった。
結果この時最後に候補になったのは扶桑型だったのだが、ちょうど日向が事故で第5砲塔が使用不可能になっており、そのため同型の伊勢ともども伊勢型に変更された。
一方の連合国はどうだったかと言うと、マリアナ沖海戦の後だけでアイオワ級戦艦『ウィスコンシン』(米、1944年竣工)、ヴァンガード』(英、1946年竣工)が就役、さらに米海軍の戦艦建造計画の終焉は戦後も大きく下った1950年のこと(『ケンタッキー』工事中止)。かのモンタナ級戦艦も正式に建造中止・解体が決定されるのは1943年である。
しかもあくまでなくなったのは「建造計画」。完成したアイオワ級戦艦が退役を始めるのは1990年のことで、最後の現役艦である『ミズーリ』と『ウィスコンシン』は湾岸戦争に参加しているのである。最終この両艦が退役したのは1992年。その理由はソ連が崩壊してので維持コストの削減を求められたからである。
つまり、アメリカは戦艦も空母も両方作れる国力があっただけの話である。逆を言えば、日本は戦術思想にある程度の先進性があったにも関わらず、それをやるだけの国力がまるで足りなかったということなのだが・・・。
大日本帝国海軍の階級
大日本帝国陸軍と共通点は多いが、微妙に異なる点も見受けられる。また、大佐を陸軍では「たいさ」と読んでいたが、海軍では「だいさ」と読んだ。
戦後
帝国海軍は敗戦によって解体されたが、その組織構造は海上自衛隊(その前身たる海上警備隊・保安庁警備隊も含めて)や海上保安庁の前身となった。特に、海上自衛隊は帝国海軍の伝統を引き継ぐ側面が多々見受けられる。
所属した主な軍艦および艦艇
戦艦
敷島型
・三笠
航空母艦
・鳳翔 ・赤城 ・加賀 ・龍驤 ・蒼龍 ・飛龍 ・翔鶴 ・瑞鶴 ・飛鷹 ・隼鷹
重巡洋艦
古鷹型
青葉型
妙高型
高雄型
最上型
利根型
軽巡洋艦
駆逐艦
・雪風
潜水艦
関連タグ
土日返上で働くという意味を表す慣用表現 意外にも海軍の標語であった。
竜田揚げ : 軽巡洋艦「龍田」の司厨長が、から揚げを作る際に小麦粉が無かったため代用として片栗粉を用いて揚げた調理法が広まり、艦名から料理の名前が付いたとする説がある(この説を根拠に「龍田揚げ」と表記する店もある)。