昭和における特殊撮影技術の第一人者。今でこそ映画製作の現場では当たり前になった手法や技術を初めて導入した編集者でもあり、発明家でもあった。
経歴
1901年、福島県にて生まれる。少年時代は機械いじりや絵画制作が好きだったが、とりわけ当時発明されたばかりの飛行機に夢中になる。
成長すると家族の反対を押し切り、羽田に出来たばかりの飛行機学校に入学。しかし、一機しかない飛行機が墜落し、教官も事故死してしまった事から学校は閉鎖。現在の東京電機大学に入学。同時に学費を稼ぐためにおもちゃ会社に勤務。様々なヒット商品を生み出し、特許料を稼いだ(その内の一つに証明写真の撮影ボックスのベースとなった物もあったりする)。
その特許料で他の社員たちと花見に行くが、そこでよその客とケンカになってしまう。円谷が止めに入った相手が映画会社の人だった縁で映画界に足を踏み入れる。
1930年に結婚。多くの子が生まれる。1933年に公開された「キングコング」を観賞して衝撃を受ける。そしてわざわざアメリカからフィルムを取り寄せて映像の研究に勤しんだという。
1937年に東宝に入社。そこでプロパガンダ映画や軍の教育用フィルム等を作成。なかでも1942年に公開した「ハワイ・マレー沖海戦」ではその手腕を存分に発揮し、本物と見間違う様な映像を作り出し、大ヒットとなる。だが、それが仇となり戦後GHQから「戦時中に教材映画、プロパガンダ映画に加担した」として、公職追放処分を受けてしまう。52年に処分が解除されると東宝に復帰した。
1954年、「インド洋で大蛸が日本船を襲う」と言う企画を持ち込む。そして、それを基に田中友幸プロデューサーが「G作品」と言う企画を立ち上げた。それこそ、国産特撮怪獣映画第1号「ゴジラ」である。翌年公開された「ゴジラの逆襲」では「特技監督」という史上初の肩書きを与えられる。
その後も様々な東宝特撮映画の製作に携わり、1963年には独立し「円谷プロ」を立ち上げる。そして、ウルトラQやウルトラマンと言ったシリーズの監修を務める。
1970年、伊東の別荘で療養中に狭心症で亡くなる。享年68歳だった。