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ペリーの編集履歴

2014-12-16 10:59:45 バージョン

ペリー

ぺりー

ペリーはヨーロッパ系(アメリカ系)の人名。

表記に関して

この項目は複数の人物およびキャラクターに関し記述しております。

海軍一族

 この一族のもととなるのはクリストファー・レイモンド・ペリーという人物である。この人物は大英帝国植民地であったニューポート(現在アメリカロードアイランド州)にて出生。母親に関してはかなりな有名人の血をひいていたようである。

 この人物はアメリカ独立戦争の際、私掠船(ある国より敵国の船から略奪することを許可された船舶、海賊とは異なる)の乗組員(民兵)として従事した。なお、2度敵国にとらえられるがその際に夫人とであった。1799年にアメリカ合衆国の海軍としてその息子、オリバー・ハザード・ペリーとともにフリゲートに乗り込み、戦績を挙げたとされる。なお、当人は2年後引退し、その17年後に死去。

 この人物の息子は5名存在し、そのすべてが海軍将校となった。上に上げた人物以外にはマシュー・カルブレイス・ペリーが日本では有名である。また、娘が3名存在し、1名は未婚だったものの、2名はウィリアム・バトラー(海軍軍医、息子マシュー・カルブレイス・バトラーアメリカ陸軍に行き、少将にまでなったのち上院議員)、ジョージ・ワシントン・ロジャース・シニア(海軍大尉、息子は海軍中佐ジョージ・ワシントン・ロジャースおよび海軍少将で太平洋艦隊最高司令官のクリストファー・レイモンド・ペリー・ロジャース)に嫁いだ。

 この人物の息子であるオリバー・ハザード・ペリーは、米英戦争(1812年から1814年にかけて行われたアメリカ合衆国対イギリス、そのの植民地カナダによるインディアンの代理戦争)のエリー湖の戦い(オハイオ州湖岸プット・イン・ベイ近くで戦われた水上戦、この戦いではアメリカ軍はイギリス軍の艦艇6隻を捕獲、これによりアメリカはデトロイトを取り戻し、エリー湖の制水権を回復)で勝利したためエリー湖の英雄と呼ばれている。しかし、この人物は1819年に病死した。なお、この人物の名前はペンシルベニア州の郡名(1820年命名)となったり、ミサイルフリゲートネームシップ(1975年建造開始)になったりしている。

 この人物の弟にあたるマシュー・カルブレイス・ペリーは、父親の3番目の息子とも5番目の息子とも言われている。アメリカ海軍大佐または代将。この人物の詳細は上記通り長くなるためマシュー・ペリーにて執筆予定。

参照項目

wikipediaマシュー・ペリーのリンク先の記事、具体的にはここここを中心に記述。

関連項目

ディズニー フィニアスとファーブ カモノハシペリー ティンカーベル

アメリカ合衆国 アメリカ海軍 黒船 なめられペリー 宮崎吐夢

フレンズ

マシュー・カルブレイス・ペリー

来航

嘉永6年(西暦1853年)6月3日、ペリーは4隻の艦隊を率いて、浦賀水道に到達した。

搭載した最先端をいく炸裂弾砲を並べ、いつでも使用する用意があるといって日本を威嚇した。日本当局は、国法に従って長崎に廻航してほしいと嘆願したが、ペリーはそれを無視し、武器を誇示して強引かつ違法に居座った。国際法に照らして、海賊行為であった。ペリーは白人優位の歴史観しか持ち合わせていなかったのである。


ペリーはその日本人に取り入るために贈物を持参した。浜辺にレールを敷いて、模型の蒸気機関車を走らせたのである。当時、日本は最も高度な文明国であったが、おもちゃの汽車が功を奏して幕吏たちが熱中したのであるから滑稽である。

ペリーだけでなく、ヨーロッパ各国にとってアジアは植民地支配の新たな獲物であった。西洋人にとってアジアには国境線がまったくなく、原住民は人として扱われなかった。ペリーは、即刻行動しなければ、アジアは他の白人国家によって、すべて植民地にされてしまうと焦ったのであった。


傍若無人に侵入したペリーは、自分は神の使命を果たしていると考えていた。一方で、日本の神を蛮神として、まったく敬意を払わなかった。

こうして圧倒的な力で日本を凌辱し、不幸な火種を植えつけ、西洋に対して長年にわたって燻り続けた敵愾心を抱かせた。この火種は後の太平洋戦争となった。


ギャグマンガ日和の登場人物

なめられペリー(18話)


関連タグ

黒船 不平等条約

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