明治16年(1883年)東京生まれの彫刻家・画家・詩人。本名は漢字は同じだが読みが違う、高村光太郎(たかむら・みつたろう)。
父の高村光雲も高名な彫刻家で、父の跡を継ぐべく美術学校に入学。アメリカ、フランスへの留学後日本美術界の古い体質に反旗を翻し、父に反抗するようになる。美術家としての活動の傍ら詩や短歌、美術評論を書きはじめ、文人としても活躍する。
それまでの新体詩は文語体であったが、光太郎の力強い口語体による詩は当時としては斬新なもので、萩原朔太郎らとともに口語詩の確立に大いに寄与したと評価されている。
1914年に女性画家だった長沼智恵子と結婚したが、やがて彼女は統合失調症を発症してしまう。
この頃の彼女とのかかわりで産まれた作品が「智恵子抄」である。智恵子は1938年に死去。
その後も文学、美術両面の活動を続けるが、戦時中に書いた詩が戦争協力と非難され、その自責と負い目から、岩手県花巻の山奥の小屋で隠棲生活を送る。1956年に結核で死去。
花巻の詩人宮沢賢治が死後その作品を見直されるようになったのは、光太郎と草野心平の功績が大きい。
主な作品
文学
彫刻
- 裸婦坐像
- 手
- ざくろ