共産主義の思想を持った匪賊(集団で略奪などを行う賊)という意味の言葉で、戦時中の中国民衆の間で呼ばれていた中国共産党政府・軍の別称。
第二次世界大戦の時代おいて、中国軍は行く先々で同胞である中国民衆に対して強奪や大量殺戮を行っており、共産軍はそのあまりの酷さから、この名称で呼ばれた。
中国では伝統的に、民衆とは戦乱で虫けらのように殺される存在であり、少なくとも権力者から愛護を受ける対象とはなっておらず、清朝末期の政治家・ジャーナリスト・歴史学者である梁啓超は、中国の民衆を『戮民(りくみん)』(殺戮される民)と呼んでおり、『国共合作』により毛沢東が率いる共産軍と組んで日本との戦いを始めた蒋介石の国民党軍は、1938年に日本軍の進撃を阻もうと黄河の堤防を爆破(黄河決壊事件)し、このときに大雨が降ったこともあって、11の都市と4000の村が水没し、水死者100万人、その他にも600万人という被害者を出す大惨事となった。
しかもそれだけでは終わらず、この人為的水害が原因で黄河の水路が変わったため、周辺に大飢饉が広がってしまい、被災地の食糧不足に悩んだ中国軍部隊は民衆から食糧の強奪していたため、飢饉はさらに深刻化しまった。
「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた」
と報じている。
また、中国側は事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝も行っていたが、のちに外国人記者によって中国側の自作自演であったことが見破られている。
ちなみに、この堤防決壊よる日本軍兵士の死者は一人もおらず、ただ中国人を大量殺戮しただけで終わっている。
中国の軍隊は、共産党軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というよりルンペン(浮浪者・失業者)を寄せ集めたような集団にすぎず、彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来て食いっぱぐれなかったからであり、そのため司令官は、土地を占領すると最低でも一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせており、そうしない司令官は殺されてしまっていた。
こうした中国軍の性格は、共産党軍ではさらに酷いもので、共産党軍は行く先々で民衆に略奪・殺人・強姦を働いていたため、民衆から上述した「共産主義の匪賊」と呼ばれていたのである。