概要
鹿児島県出身。
PL学園時代は高校No.1スラッガーと呼ばれていた。
1995年のドラフトでは7球団が1位指名し、大阪近鉄バファローズが交渉権を獲得するが拒否している。
日本生命に就職した後、1998年に中日ドラゴンズを逆指名して入団。
入団当時は遊撃手を務めていた。当時の星野仙一監督が積極的にスタメン起用し、福留もそれに答えたが、守備に難があり打撃も確実性に欠けていた。
2000年に三塁手へコンバートされるが守備難は相変わらず。2002年に外野に再コンバートされると、ようやく守備も安定した。
打撃では松井秀喜の三冠王を阻止する首位打者を獲得するなど、安定感も増した。
2003年は3割、30本塁打。2004年には4番にも座った。以降2007年オフにFAでメジャーに移籍するまでドラゴンズの中軸としてプレーし続けた。
2008年からはシカゴ・カブスでプレー。この年は打率.257と苦戦。
翌2009年は打率.259、2010年は.263。特に2009年は日本時代あまり守らなかった中堅守の守備に苦労していた。
2011年は前年より好調なバッティングを維持していたが、7月28日にクリーブランド・インディアンスへトレード移籍。この年は打率を除いてメジャー移籍後最低の成績に終わる。
オフにシカゴ・ホワイトソックスと契約するがケガと不振で解雇。後にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結ぶがメジャー昇格はならず、9月に解雇された。
2012年オフに阪神タイガースへ移籍、翌2013年に正式契約。
人物
- 中日時代は広角打法を武器に、コンスタントに打率3割と20本塁打以上を記録。守備も前述のように内野手時代は不安定だったが、外野手としては強肩を武器に堅守を支えた。
メジャー移籍後はやや不安定になる。ヤンキースでは一塁手を守ることもあった。