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ミハイル・ゴルバチョフの編集履歴

2016-02-28 17:39:57 バージョン

ミハイル・ゴルバチョフ

みはいるごるばちょふ

ソヴィエト連邦最後の最高指導者。最後の赤い皇帝

Л. ван Бетховен. Симфония №9. 4 часть Presto (ода "К радости")

第9交響曲第四番


・露Михаил С.Горбачёв

・英 Mikail・S・Gorbachev


ミハイル・セルゲイヴィッチ・ゴルバチョフ

(1931- )(2016.85aeg)


ソヴィエト連邦の政治家。共産主義者

連邦最後の第一人者赤い皇帝独裁者)として有名 あだ名ゴルビー(GORBE)

公の世界に伝記を組み立て残せるほどの情報を残した唯一のソヴィエト政治家である、あとはソ連共産党とともに封印された。

モスクワ大学法学部卒(1955)、ロシアソ連社会主義共和国カフカスに生まれる。ロシア帝国時代からの農家

父も共産党員

ソヴィエト連邦ブレジネフ政権の治世中だった1970年にスタブロポリ町ソビエト第一書記、71年ソ連共産党ポリトビューロ政冶局)候補、78年ソ連農業省大臣、80年からポリトビューロ員(政治局員)メンバーとなってクレムリン(ソ連共産党本部・ソ連中央政府)に入城した。


1982年にブレジネフが亡くなり、後任のアンドロポフ、チェルネンコ書記長が一年おきに亡くなる異常事態に元で台頭し、85年にチェルネンコの後任として書記長に就任した。就任演説においてペレストロイカグラスノスチ建て直し・情報公開)政策を宣言した。

1986年ソ連ウクライナソビエト共和国チェルノブイリ原発事故が発生し人類史上の未曾有の放射能災害が発生した。原発事故の第一報を始めて国際社会に知らせたのはイギリス政府であった。ソビエト・共産党体制の深刻な構造腐敗を痛感したゴルビーは、同年開催されたソ連邦共産党第27回大会においてペレストロイカグラスノスチ建て直し・情報公開)政策の早急な実行を決定した。

 

 彼は手始めにポリトビューロ政冶局)のブレジネフ・フルシチョフ時代から着任していた古参メンバー(ノーメンクトゥーラ)を粛清した。

ゴルビーの場合は唯の引退勧告で済むが他の書記長だったら『人物写真の配置を交換されて消される』)


彼はソヴィエト連邦の国家イデオロギーペレストロイカ(情報公開)に変更し、それまで共産党が全て決定していた企業・農業など多岐にわたる分野でのソ連市民(プロレタリ)に分権し活性化する五カ年計画計画経済に着手を始め、1987年にはソヴィエト連邦自体が放っていた負(悪)のイメージ独裁共産党の公安警察の弾圧帝国の世界観の一掃に着手した。つまりソ連国内外の歴史設定の全面見直し、亡きスターリンを髣髴させるような統治のオサラバ、民主主義。選択のできる自由選挙による共産主義(社会主義民主国家)にソヴィエト連邦自体を再建しようとした。共産主義版アメリカ合衆国を目指した(三権分立・民主主義・資本主義)


 外交では『新思考』を打ち出し、ソ連圧制を敷いた東欧の社会主義諸国(ソ連同盟国)の体制を解除し。社会主義に反目する外国へのアプローチも積極化した。他の国とも共産主義原理のガチガチの政治家と思えぬほど数の会談を行うようになる。特にソヴィエト最大の仮想敵国だったアメリカ合衆国大統領とのD・レーガンとの首脳会談は歴史上まれに見る伝説的効果を発揮し、今までありえないほどの協調関係を作り出した。中距離核戦力全廃条約(IMF全廃条約)や米ソ冷戦の終了宣言(1989)は突飛に値する。(米ジョージ・W・ブッシュ)


その他、ブレジネフ政権から継続していたアフガニスタンからのソ連赤軍を撤退命令、ワルシャワ行われた鉄のカーテンの終了、東西ドイツの統一承認など戦後今まで解決のめどを立たなかった問題がゴルビーの時代に一気に解決に走った。この時の成果からヨーロッパ諸国ではゴルバチョフは民主主義体制の大統領でもめったにお目にかかれない大政治家と目されるようになった。


 民主主義世界でもなかなか現れない英傑だが、左翼・共産主義世界ではかなり番外な存在であり、『レーニンと労働者の栄光の破壊者』という批判を受け足りもした。今まで左翼(レーニンスターリン毛沢東ポルポトカストロトロツキー)を手本にし、理論武装で飯を食っていた物共(ゴルバチョフ以外の共産党員)から食い扶持を全て奪う行為であり、共産党・社会党という組織はなんだったのだという根本的な考えまで遡らならずえず。左翼理論武装で権威を得ていた頭のいい学者共が一瞬にして無価値ではないが塵に等しい存在になった。さらにばちが悪いことにあの共産主義政冶独裁原理においてカリスマであったV・スターリン書記長の直系の後任の書記長で(一応)ユートピア国家ソヴィエト連邦で『全否定』する存在があわられたというのはあってはならないことではないだろうか。ただ、他の左翼共がゴルバチョフを非難する資格は全くないし、スターリンを肯定している人はもはやどうにもならない。


 ただ、調べれば解かることだがもともとソヴィエト連邦が公に登場する以前からの対立で『こうゆうこと』はいつかは起こると感じていた人々はいたように思う。過去の文献にはなんとなくちらほらしている。ソヴィエト連邦は野党側が無理やり政権を奪ってめちゃめちゃ踏ん張りながら保ったような強国だからだ。


 1988年ゴルビーはソビエト最高議長(元首)に就任後ソ連憲法の改定し、ソ連共産党オートクラシー全自動政冶専制独裁)の項目を削除、労働者代議員会議下院)を新設を決定。これでソヴィエトは二院制議会を得たことになる。

1889年にゴルビーは労働者代議員会議議長(元首)に就任した。


1989年にソ連邦第1回労働者代議員総選挙が行われ、それまで永久職だった共産党員も立候補し他ソビエト人から政治家になりたい人々が立候補した。結果はソ連共産党共産党議員の大惨敗に終わった。これは全連邦ソビエト共和国の何処の選挙区でも同じだった・・・。ゴルバチョフ自身も一応議員当選を果たしたと思われるが。各地で選挙に大惨敗した結果についての総括が行われたのかは不明である。(この場合、デモクラシー国家の場合政党党首や幹事長・執行部に責任があり辞任となるが辞任しなかったようだ。)この間、ドイツではベルリンの壁が崩れ、東西ドイツが統一する事態となった。ゴルバチョフ自身はさすがに当初非難する予定であったが、西側ドイツと議論を重ねることにより自発的にドイツが統一できるように対処した(神対応


どっちにしろソ連共産党はソヴィエト連邦において少数与党に転落したことになる、1922年以来より良い悪い超絶独裁政党の代名詞だったこの共産党徒党が一挙に頼りない存在になった衝撃は計り知れなかった、というより歴史上でも例のない政冶状況だ。この結果を受けてロシアソ連社会主義共和国ではロシア最高議会の再建が行われ、エリツィン(当選)がロシア議会議長に就任し、ソ連中央政府とロシア中央政府が二重政府状態となりロシア政府自体ソヴィエト連邦が主導権を握ることになっていった。


1990~1991年にロシア政府など野党勢力の圧力よって自身の権力の危機を感じたゴルビーは(民主政治的には正しい)、大統領制を導入し自分の権力の固定化をねらった、さならがら古代ローマ帝国(このばあいローマ共和国)の元首制のローマ皇帝であるが、これによってソ連史上初の『ソビエト市民の第一人者』をえた、(これまでは共産党の第一人者だった。)ゴルビーは自身に迫る『ゴルビー下ろし』にもめげず、アメリカ・中国・バチカン・日本・イギリスをソ連共産党側初めての首脳として歴訪し、日本ではシベリア抑留の被害者の全記録を公開し、バチカンではカトリック教会との和解を成功させた。


これがソヴィエトの政府機構が崩壊しながら行えたというのは想像を絶する。結局ゴルバチョフは1991年の末に政治生命を絶たれソヴィエト連邦の失効するという大惨事をもたらしたが、これがあの時代の人間(共産主義者)の最大限の限界だったと思う。よく暗殺されなかった



 唯の人になったゴルビーは現在、国会に議席を持たないロシア社会民主党→ロシア独立民主党を率い、ウラジーミル・プーチンらによる強権的統治体制を批判している。また金策に奔放することが多くなり外国などにくることがある。


彼の歴史的評価はどうなるかはまだちょっとわからない。


関連項目

神対応

ソ連 ロシア連邦 大統領

ゴルビー/ゴルバチョフ

ボリス・エリツィン

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