概要
当時は「樋口与六(ひぐち よろく)」を名乗っていたが、後に「兼続」に改名。また、直江景綱の次女・お船と結婚し養子縁組により直江姓を名乗るようになった。
上杉景勝(長尾顕景)の家臣で、上杉家の景勝政権下における執政。
生来からの利発さを見込まれて上杉景勝の近習となる。
「関ヶ原の戦い」の発端という通説のある、いわゆる「直江状」が広く知られる。
「直江状」は「往来物」として出回った。原本が存在せず偽文書説などもあり、見解が別れる。しかし『鹿苑日録』や上杉景勝発給書状により、書状が取り交わされたこと及び、直江状にあるような状況であったことは確認されている。関ヶ原の戦い勃発の引き金となる会津上杉家への討伐理由は徳川家康から「城を増強、改築している」「浪人を募集している」といった点からこれらを謀反の疑い有りと嫌疑に掛けられ、コレに反論した上杉家へ江戸の徳川家康が挙兵した事より発生しているのだが、上杉景勝が会津に転封されたのは慶長三年(西暦1598年)の事であり、旧領よりの加増転封である事から拠点を改修し領土に見合った新しい家臣団を形成するのは当然の事であり、よって徳川家康の言い分はほぼ言いがかりに等しい。此処から徳川家康の上杉討伐が開始され、徳川軍が北上している最中に石田三成がこの動きに呼応して関西で挙兵、総大将として毛利輝元が大阪城に入城して関ヶ原の戦いが始まる。
「愛」の文字を模した前立を付けた変わり兜で有名で、現物がかつての兼続所用の品として米沢市「上杉神社稽照殿」に伝わっている。由来は「愛宕権現(勝軍地蔵)」もしくは「愛染明王」に肖ったと推測されている。
(但し、兼続の遺品ではない説もある)
現代の人気としては、かつて週刊少年ジャンプで連載されていた原哲夫の漫画『花の慶次』や、
コーエー発売のアクションゲーム『戦国無双』シリーズなどの作品で登場キャラクターとして描かれたり、
記憶に新しいところでは、NHK大河ドラマ『天地人』で主人公として描かれたことでその名が広く知られるようになった。
人物像
上記の通り現代の兼続の愛され振りからは俄に信じられぬ事ではあるが、直江兼続がその人気を博するようになったのは明治時代、ジャーナリストの福本日南が明治時代に「直江山城守」という伝記を書いてからの事である。
何しろ直江兼続が仕える会津百二十万石の上杉家では「直江状」が「関ヶ原の戦いに於ける戦端を切った」という印象が強く、かといって上杉軍が関ヶ原の戦いで果敢に戦ったかというと決してそうではなかった。
積極的に南下すれば江戸を接収できたにも拘わらず最上や伊達といった中勢力…それも本拠地ではなく周囲の支城ばかりへと攻め込み、そこそこ槍を交える膠着を狙い漁夫の利を得ようとしていた兼続であったが、関ヶ原の戦いが僅か一日で終戦してしまい、全く締まらぬ不戦敗の不完全燃焼状態で降伏するという結末になってしまった。この様な結果となってしまったのは、兼続が家康の力量を過小評価し過ぎていたと言わざるを得ないかもしれない。
そして、所領が会津百二十万石から米沢三十万石に減封されるという憂き目に遭っているが、西軍について改易された大名が多数、あるなかで大量といえど1/3の減封という処断で済まされたのも兼続の政治、外交手腕の賜物であると言えなくも無い。
これらの点に於いて、ある意味で兼続は減封を受けた戦犯の筆頭格に当たる人物と云う事になり、本来ならば関ヶ原を引き起こした張本人である石田三成と同罪と見なされ、斬首刑を言い渡されても文句の言えない立場にある。
加えて米沢は江戸のすぐ北にある事から、同じく敗戦の将となった毛利氏や島津氏と違って徳川譜代大名に囲まれた上杉家は江戸時代に於いておくびにも関ヶ原の戦いについて口に出来ようはずもなく、直江家は兼続の代で断絶すると菩提寺である徳正寺も米沢から越後へと追い返され、直江夫妻の墓も林泉寺へと改葬されてしまっているのである。
そして更に米沢上杉家が所領三十万石から十五万石に減封され、財政破綻寸前で江戸時代のナンバーワン領主と名高い上杉鷹山が迎えられる頃には直江兼続の名は最早、何処にもなく、家臣団も江戸中期には直江兼続の旧領である与板を名に頂いた与板組という中級武士団が一つだけあるという程度にまで没落する事となる。
「陪臣にして、直江山城、小早川左衛門、堀監物杯は天下の仕置をするとも仕兼間敷ものなり」
(筆者訳:私の陪臣で天下の差配を任せても人後に落ちない三人の名を上げるとすれば、直江山城守兼続、小早川左衛門佐隆景、堀監物杯直政だろう)
とまで称されている以上、有能であった点については疑いが無さそうである。実際、関ヶ原の戦い後の大量減封に伴う藩政改革やその後の配置転換なども兼続の辣腕で行われている。
兼続は正義の武将か?
漫画や大河ドラマの影響で、近年における直江兼続は正義の武将として解釈される事が多いが、力こそが全ての戦国時代である以上、兼続もまた例外ではない。
まず、上杉謙信が後継者を決めないまま急逝して起こった「御館(おだて)の乱」の際は、景勝と対立していた上杉景虎の騙まし討ちを行い、彼を春日山城から追い出し、最終的には自害にまで追い込む非情な謀略に出ている。
また、関ヶ原の戦いにて、義光の山形城の支城となる畑谷城を攻め込んだ際には、防衛を担った江口光清が降伏勧告を拒否したというだけで、余程苛立っていたのか、落城の際に城にいた兵士達はおろか、女・子供といった領民達まで見境無く切り殺す「撫で斬り」という虐殺の指揮を取り、こんな事をしている間に、三成率いる西軍は東軍に敗北してしまい、大河ドラマの『天地人』で見せた仁義を重んじる兼続の面影などまったく感じさせないといえる。
最も非情な行いとされるのは慶長2年(1595年)の時の事で、些細な理由から兼続の家臣が「無礼討ち」という形で領民を切り殺してしまい、三人の遺族に責められ逆上した兼続は、その場で全員の首を刎ねて晒し首にしてしまっている。
この様な点からも、義将と評される直江兼続は、実際は目的の為に謀略や強引な解決手段も厭わない非情な人物としての側面も持ち合わせていたと言える。
登場作品における直江兼続
『戦国無双』シリーズにおけるもの
CV:高塚正也
『戦国無双2』からプレイアブルキャラクターとして登場する上杉家の武将。
詳しくは 直江兼続(戦国無双) の記事へ。
『天地人』におけるもの
2009年NHK大河ドラマ『天地人』の主人公。
ドジっ子であり泣き虫の兼続が成長していき、やがて上杉家家老として活躍するストーリー。
『真田丸』におけるもの
演:村上新悟
クールな性格で国の維持のためなら極刑を下すこともいとわない。冷徹な人物として描かれておりこれまでの兼続像とは一線を画し、前述の非情さを顕にしたかのような設定となっている。
別名「セコム直江」。
『花の慶次』におけるもの
上杉景勝配下の武将。前田慶次が男として惚れるほどの文武両道の名将で、後に慶次とは終生の友となる。
慶次の朱槍を軽々と振り回すほどの膂力の持ち主だが、普段は温和で優しい性格。石田三成とも義兄弟の契りを交わす仲であった。
慶次と上杉家小姓の諍いでは、小姓の親である老臣達が慶次を罵るのに対し「利いた風な口をきくな~!!」と一喝。上杉家に味方する振りをして敵と通じていた本間氏当主・本間左馬助の軽薄な態度に対しては血の涙を流しながら鉄拳を御見舞いするなど、「義」を重んじる熱い性格が見て取れる描写が多い。
作中では「なつ」と言う名前の妹が登場するが、兼続に妹あるいは弟が居たかどうかについては現在のところ推測の域を出ていない。
慶次は出家後、兼続の願いにより米沢30万石に転封された上杉家とともに米沢で生涯を過ごす事となる。
因みに、若き日の兼続を主人公に据えた『花の慶次』のスピンオフ作品『義風堂々!!直江兼続 -前田慶次月語り-』(原作・原哲夫&堀江信彦、作画・武村勇治)が存在する。こちらでは、彼もまた慶次に負けず劣らずの「傾奇者」であったという新たな設定が追加され、容姿も原作よりも若々しく奇抜な趣向を好む人物に脚色された。
『戦国BASARA』におけるもの
自称『無敵の主人公』。
詳しくはこちら
『戦国大戦』におけるもの
「1570魔王上洛す」から参戦。ただしカード表面の表記は樋口姓となっている。
2コスト槍足軽・特技「制圧」・高統率など、追加以前の上杉家に不足してた要素を一人で完備する。
計略は「愛と義と」。上杉家の味方武将の兵力を回復させ、統率力を上げる。
強烈な火力を持つが統率力が総じて低い上杉家の弱点を補うデザインとなっている。
『BRAVE10』におけるもの
CV:三木眞一郎
原作第5巻から登場。
口が悪い。作者からは「嫌味」と呼ばれている。石田三成とよく一緒にいる。狸(徳川家康)が嫌いで、彼をネズミ扱いしたことも……
直江状なるものを徳川家に送り付けて、家康を怒らせた。
幸村も彼には口で勝てない。
アニメ『戦国コレクション』におけるもの
二つ名・純愛天使
詳細は純愛天使・直江兼続を参照。