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九九式艦上爆撃機の編集履歴

2011-03-10 16:01:04 バージョン

九九式艦上爆撃機

愛知 九九式艦上爆撃機は、昭和11年(1936年)「十一試艦上爆撃機」として試作が始まり、愛知航空機(1943年愛知時計電機から独立)が受注・生産を行い、太平洋戦争初期に活躍した、日本海軍の艦上急降下爆撃機。通称「九九式艦爆」、もしくは「九九艦爆」。記号はD3A。アメリカ側コードネームはVal(ヴァル)。


開発

十一試艦上爆撃機から一一型

当初海軍から試作の下命を受けたのは、中島飛行機・三菱航空機・愛知航空機であったが、三菱は早期に開発を断念し、中島と愛知が開発競争を行った。急降下とその制動時に機体に重い負荷がかかる急降下爆撃に必要とされる、堅牢さと飛行安定性を両立させるのは困難を極めた。


愛知は、ドイツのハインケル He 70(海軍が民間型を1機輸入)を参考に、全金属製・(空気抵抗の面で引き込み脚の方が有利ではあるが、堅実に)固定脚を採用、主翼両側下面に急降下制動ブレーキ板(ダイブブレーキ)を配置し、主翼は低翼式を採用、主翼・尾翼の端を楕円形として、飛行安定性の確保を目指した。


昭和13年(1938年)に初飛行に成功。開発当初の本機の挙動は不安定で、何度も改良を余儀なくされた。特に問題であったのは翼端失速による不意自転である。これを主翼の捩じり下げの増加、および垂直尾翼前方のヒレを追加して解決した。本機は中島社製の十一試艦爆と競争試作されたものであるが、中島十一試艦爆は海軍側の要求変更に対し、設計が間に合わず納期遅れで失格となった。これにより本機は昭和14年12月16日、「九九式艦上爆撃機一一型」として海軍に正式採用された。試作機は中島製の光一型エンジンを搭載していたが、量産機では三菱の金星四四型(または四三型)が搭載された。


二二型

太平洋戦争の中期になると一一型では性能面で物足りない部分も増えてきたため、1942年(昭和17年)8月に仮称九九式艦上爆撃機一二型と呼ばれた改良型が試作された。そして、1943年(昭和18年)1月に九九式艦上爆撃機二二型(D3A2)として制式採用された。


二二型はエンジンを金星五四型(1300hp)に換装した他、プロペラスピナーの追加や風防の後部延長等の変更およびエンジンカウリングや尾翼前縁の形状変更などが施された。これらの改造により速度性能や上昇力は向上したが航続性能は低下した。二二型は1943年初めから部隊配備が開始された。


戦歴

九九艦爆は、零式艦上戦闘機・九七式艦上攻撃機と共に、太平洋戦争前期の日本海軍の快進撃を支え、真珠湾攻撃やセイロン沖海戦などで高い急降下爆撃命中率を示した。 ハワイ海戦において九九艦爆は78機が艦船攻撃に参加し78発を投弾、うち命中確実なものは47.7%と算定された。アメリカ側の判定による250kg爆弾の命中状況は、戦艦ネバダに6発以上、戦艦メリーランドとペンシルベニアに1発、軽巡ヘレナとローリーに1発、駆逐艦カッシン、ダウンズ、ショーに1発となっている。


続いて、九九艦爆は南方攻略作戦に投入される。昭和17年1月下旬、空母機動部隊はラバウル、カビエン、ラエ、サラモア、マダン、アンボンを攻撃した。2月19日、ポートダーウィンを空爆、飛行場施設と在泊艦船に大打撃を与えた。同月27日にチラチャップを攻撃。3月1日にはクリスマス島沖にて給油艦ペコスを撃沈、ほかに駆逐艦エドソールを撃沈した。


セイロン沖海戦でも高い爆撃命中率を示し、4月5日イギリス海軍重巡洋艦コーンウォールとドーセットシャーを、攻撃開始からわずか二十分足らずで撃沈。攻撃に参加した九九艦爆は赤城、蒼龍、飛龍から発進した53機である。赤城隊と飛龍隊は命中率94%、蒼龍隊は命中率78%を記録、平均命中率は88%である。 同9日、バッティカロア沖にて空母ハーミーズと駆逐艦ヴァンパイア、コルベット ホリホックを、赤城、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴から発艦した九九艦爆85機による攻撃で撃沈した。ハーミーズは45機に爆撃され、爆弾37発を被弾、平均命中率は82%である。 これらの高い命中率は、防御砲火が大戦後半と比べ激烈ではなかったことと、練度の高いパイロットに負うところが大であった。「艦上爆撃機の神様」とされた江草隆繁少佐による正確無比な急降下爆撃は当時有名で、九九艦爆は「最も多くの連合国艦船を撃沈した枢軸国機」と呼ばれている。


九九艦爆はこの後も戦場に投入され続け、戦歴は珊瑚海海戦、ミッドウェイ海戦、ソロモン海戦、南太平洋海戦、「い」号作戦、「ろ」号作戦、マリアナ沖海戦、フィリピン島決戦、沖縄決戦に至る。


珊瑚海海戦では翔鶴と瑞鶴の艦爆隊が投入された。昭和17年5月7日、駆逐艦シムスを撃沈しタンカー1隻を撃破した。翌8日には決戦が行われ、33機の九九艦爆が攻撃に参加、空母レキシントンに250kg爆弾2発、ヨークタウンに1発の命中弾を浴びせ撃破した。レキシントンはこの攻撃で大破炎上し、アメリカ軍の駆逐艦によって雷撃処分された。艦爆隊の損失は9機である。


ミッドウェイ海戦では赤城、加賀、蒼龍が沈没する中、飛龍は2度にわたって反撃を行い、ヨークタウンを撃破炎上させた。第一次攻撃に参加した九九艦爆は18機である。九九艦爆は250kg爆弾3発の命中弾を与えたものの、18機中13機を失った。ヨークタウンは大破し、翌日に日本軍の潜水艦伊一六八の雷撃を受け、沈没した。


昭和17年8月24日における第二次ソロモン海戦で、翔鶴と瑞鶴の艦爆隊は空母エンタープライズを攻撃、27機の九九艦爆が出撃し急降下爆撃を敢行した。これによりエンタープライズは3発の命中弾を受けた。エンタープライズは中破して後退、しかし艦爆隊は23機を失った。


南太平洋海戦では、昭和17年10月26日、瑞鶴の艦爆隊21機が出撃し、空母ホーネットに命中弾5発を与えた。翔鶴艦爆隊の19機はエンタープライズを攻撃し3発が命中。また隼鷹艦爆隊17機が出撃、軽巡サン・ジュアンと戦艦サウスダコタに命中弾1発を与えた。さらに4機が漂流状態のホーネットを攻撃して1発を命中させた。放棄されたホーネットはこの後日本軍の駆逐艦秋雲と巻雲により雷撃処分された。この戦果の代償として艦爆隊は40機を喪失した。


「い」号作戦以降は艦爆隊が陸上基地へ進出して戦うようになった。また、陸上基地航空隊に配備された九九艦爆が作戦参加の主体となっていく。 「い」号作戦ではラバウルにおいて航空戦力460機が投入され、航空撃滅戦を企図した。この作戦に参加した九九艦爆は78機である。ガダルカナル島方面作戦、オロ湾攻撃、ミルン湾攻撃に投入された。多数の輸送船を撃破・撃沈したものの21機を喪失した。


九九艦爆の、空母からの作戦参加はマリアナ沖海戦によって終了した。昭和19年6月19日と20日に行われた同海戦において、九九艦爆は大鳳、翔鶴、瑞鶴、隼鷹、飛鷹、瑞鳳に配備されていた。機数は合計38機である。19日の第二次攻撃に隼鷹と飛鷹から計27機が出撃。しかし敵を発見できずに終わった。


続くフィリピン島決戦、沖縄決戦では特攻機として突入した。フィリピンの戦いでは基地航空隊(701空)が艦船攻撃、飛行場爆撃を行った。さらに701空の九九艦爆は20機が特攻機となり、突入した。この攻撃は数日にわたり他の機体と共同で行われ、商船1隻と軽巡デンバーが損傷し、駆逐艦アブナー・リードが撃沈された。沖縄決戦時には、旧式化した九九艦爆に戦術的な用法の選択肢は少なく、特攻に主用された。計103機が突入。突入した部隊はほとんどが艦爆や艦攻の練習隊から編成されていた。うち九九艦爆の戦果と確認できるものは駆逐艦トウイッグス(損傷)、リトル(沈没)、アーロン・ワード(大破)である。


九九艦爆はこのほか、各基地で哨戒・索敵・攻撃に従事した。


名誉と不名誉

 太平洋戦争前期に活躍した、アメリカ海軍のSBD ドーントレス急降下爆撃機は、九九艦爆よりもエンジン馬力が強力で、搭載爆弾が500kgであり、当時としては優速で、防弾装甲を施した機体の生存率は高かった。


一方、日本海軍も、既に九九艦爆開発中の昭和13年、次世代にあたる「十三試艦上爆撃機」の試作を海軍航空技術廠で始めていた。この機体は後に艦上爆撃機「彗星」として採用された。 しかし、愛知航空機での彗星の量産と本格配備は日本の敗色が濃厚となった時期と重なり、疲弊した国力と部隊の状況下では彗星の複雑な液冷エンジンの整備に振り向ける整備員も機材も不足していた。また、日本海軍の護衛空母は速力が遅い上にカタパルトを装備していなかったため、滑走距離を必要とする彗星などの新型機を運用する事は難しかった。それ故に、日本海軍は性能的には旧式となったにも関わらず、九九艦爆を使用し続けざるを得なかったのである。


新鋭戦闘機F6Fの大量投入や近接信管(VT信管)の開発がなされ、米軍の反攻体制の整いだしたソロモン諸島の戦いからは、低速で防弾装甲も貧弱な九九艦爆は多大な消耗を重ね、パイロットの犠牲者は膨大な数に及んだ。だが九九艦爆はエンジン出力と速度を改良しただけの二二型が使用され続けた。その生存性の低さから「九九式棺桶」と揶揄されたという。


昭和19年10月、フィリピン戦が始まると、10月27日の第二神風特別攻撃隊を皮切りに、多くの九九艦爆が特攻に使用された。また沖縄戦の特攻でも艦爆専修の練習航空隊から選抜された隊で数十機単位の九九艦爆が使われた[1]。


九九艦爆はハワイ海戦において米軍の保有する戦艦戦力を撃破し、航空決戦思想の有用性を証明した。さらに空母によって運用された機体は、南方各地の拠点と港湾を空爆し、日本軍の迅速な南方進出を支えた。大戦初期から中盤において本機を装備した空母艦爆隊は、アメリカ軍の空母部隊と激闘を交え、これを撃破する大きな役割を果たした。史上初の空母対空母の決戦に参加したのも本機である。 しかし、その後の戦局の悪化と機体性能の陳腐化、老朽化には対応できず苦戦を強いられ、最後には特攻機として投入された。 総合するならば、本機は幾多の功績と敗北に彩られた歴史的な軍用機である。

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