概要
「太上天皇(だいじょうてんのう)、(だじょうてんのう)」の略称。
生前に皇位を皇太子に譲位した天皇のことをいい、「太上皇」とも「院」とも呼ばれ、その御所は「仙洞・仙院」とも呼ばれた。
第41代・持統天皇が文武天皇が譲位したのが初例とされ、当初は譲位後も天皇在位中と変わらぬ権能が保証されていた。
中国の太上皇帝・太上皇にならって「大宝令」で制定されたものと考えられている。
しかし、弘仁14年(823年)、『弘仁格』、『弘仁式』を編纂して律令制を整備した第52代・嵯峨天皇が淳和天皇に譲位すると、嵯峨上皇は公的地位を離れ、朝政からも身を引くこととなった。
以後、天皇の外戚となった藤原摂関家が長く朝政の中枢を担っていくこととなった。
藤原摂関家の力が弱まるのは、治暦4年(1068年)4月、後三条天皇が即位してからであった。第69代・後朱雀天皇を父に、第67代・三条天皇の皇女・禎子内親王を母として生まれた天皇は藤原摂関家とは血のつながりが薄く、その治世において摂関家の力を徹底的に廃した政治を行っている。
治天の君
院政は後三条天皇の後を継いだ白河天皇(後三条帝の第一皇子)の譲位後に始まり、白河院は治天の君と呼ばれた。以後、鳥羽上皇、後白河上皇の治世において最盛期を迎えたが、承久3年(1221年)、朝廷の実権を握っていた後鳥羽上皇が「承久の乱」を起こし鎌倉幕府に敗れると一気に衰退、江戸時代にも行われたが、それは朝廷内にとどまり、全国に波及することはなかった。
皇室典範
明治22年(1889年)、大日本帝国憲法と同時に制定されたが戦後にいったんは廃止、昭和22年(1947年)、日本国憲法とともに公布・施行された。
これによると「上皇」を定めた条項はなく、江戸時代後期、文化14年(1817年)に119代・光格天皇が恵仁親王(仁孝天皇)に譲位して以降、現在にいたるまでこの地位に就いた天皇も実在しない。
平成29年(2017年)3月、譲位の意向を固められた天皇陛下の退位後の称号をいかようにするか検討が重ねられたが、歴史上の事実を鑑みて、平成29年(2017年)6月9日に「退位特例法」が定められ、平成31年(2019年)3月31日をもって皇太子・徳仁親王殿下に譲位、天皇陛下は退位後に「上皇」陛下、皇后陛下は「上皇后」陛下との称号になられることが定められた。
なお、新たな元号は平成30年〈2018年〉夏までに定められ、2019年4月1日から施行されることとなった。
親王から太上天皇となった例
- 後高倉院・後崇光院・陽光院(誠仁親王)
- 慶光天皇(閑院宮典仁親王)