概要
スハ32系は、直前に作られていた17m級2軸ボギー鋼製車(オハ31)の後継としてつくられた。
オハ31系では鋼鉄製の車体(屋根・内装・床は木造であり半鋼製)とはなったものの、その車体寸法や内装の基本は木造のナハ22000系と殆ど同じであった。またオハ31系は自動連結器の採用に際し全ての車両が連結器の衝撃を全て台枠中梁で負担する前提でつくられており、車体は大きさの割に極めて重かった。
ちょうど時を同じくして、オハ31系までで用いていたTR11系台車の主要部品球山形鋼(バブルアングル)が製造中止となった。この形鋼は、基本的には造船材料である。乗り心地はともかく、作りやすかったのか鉄道省は生産中止の撤回を求めたが、必要数の100倍の買い取りを要求され、断念せざるを得なかった。
そのため、台車の変更、車体の大型化(2軸車でも20m級を標準化)などの設計変更を施し登場したのが、スハ32系の初期グループ・二重屋根(モニタールーフ)の一群である。
17mで3等車80人乗りであったナハ22000~オハ31の座席配置のまま車体を3mほど延ばすと96人乗りに出来たが、これを1組8人分減らすことでシートピッチを拡大、20m88人がけが標準となった(戦後の元接収車両の格下げ車や60系では狭いピッチを選択、96人乗りとした)。
のち3等寝台車のために丸屋根を用いたグループが出来、これが全車種に波及。
3等車の製造は、本州以南向けは1939年(昭和14年)のオハ35系の登場と共に終わったのであるが、北海道と樺太向けは気候の関係で※、転換クロスシートの2等車は構造上必然的に狭窓となるためこの系列のままで継続増備され、3等車は昭和17年(1942)年まで北海道向け、樺太向けが増備されている。なお、製造中の時点では樺太向けの発注元は鉄道省ではなく、一種の植民地政府である樺太庁の所管する鉄道(樺太庁鉄道)であり、別個の形式を持っていた。
現車が工場から出る前に「内地一体化」で名称はそのままに「樺太庁」は現行制度でいうところの「都道府県」の一つになったため、庁営鉄道も鉄道省へ移管、同じ国鉄車両となった。
同じ運営元であるなら必要の高い方へ持っていってしまおう、という動機からか組織改編のあと引き渡しのスハ2650(スハ32相当)は5両中4両は渡樺せず、戦後形式を書き換えた。
※車両の重量等級が1つ上がるにも関わらず継続増備となったのは、オハ35のような広窓は、ガラスの比重(2.5)の関係で割れにくい厚さを取るとかなり重くなり、寒地向きは内窓にもバランサーを付けねばならなかったからである(内窓の入っている場所は、日よけの鎧戸や防煙網戸の入っている溝を使っている)。さらには樺太向けは当初はデッキの外側にも扉があり、ホロ布1枚で外気にさらされるデッキ内部の保温をしていた。
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