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後水尾天皇の編集履歴

2019-02-27 11:13:24 バージョン

後水尾天皇

ごみずのおてんのう

第108代天皇。江戸時代初期に在位、江戸幕府と対立し、紫衣事件を起こしたことで知られる。

概要

 慶長元年(1596年)、後陽成天皇の第三皇子として生誕、母は関白近衛前久の娘・前子(中和門院)、諱は政仁(ことひと)という。慶長5年(1600年)、親王宣下を受け、慶長16年(1611年)、父・後陽成天皇の譲位を受けて即位した。

 後宮には、興子内親王(第109代・明正天皇)を生む中宮・和子(東福門院)、紹仁親王(第110代・後光明天皇)を生む藤原光子、良仁親王(第111代・後西天皇)を生む藤原隆子、識仁親王(第112代・霊元天皇)を生む藤原国子らが入内した。

 

 慶長12年(1612年)、江戸幕府・前将軍徳川家康の意を受けて、2代将軍・徳川秀忠の五女・和子の入内が決定、和子は当時6歳であったため、実際に女御として入ったのは元和6年(1620年)、寛永元年(1624年)には「立后の儀」が行われた。

 

 その一方で幕府は元和元年(1615年)、朝廷における天皇・公家の行動を規制する『禁中並びに公家諸法度』を公布し、この中に「天皇が紫衣着用の勅許をむやみに行わないこと」が定めていた。


 寛永4年(1627年)、幕府の意向を無視する形で朝廷は僧侶十数人に紫衣を授与、幕府がこれらの措置を無効としたことで、沢庵をはじめとする大徳寺、妙心寺の僧侶たちが抗議、僧侶を流罪に処する事件が起こった(紫衣事件)。

 この処置に不満を抱いた後水尾天皇は病を理由に譲位を主張するが、和子に皇位を継承すべき皇子が生まれておらず、天皇の譲位を渋っている。


 寛永6年(1629年)10月10日、朝廷の情勢を探るため、3代将軍・徳川家光の乳母・ふくが上洛、朝廷は武士の娘であり、無位無官であるふくに従三位の位と「春日局」の名を与えた。

 同年11月8日、天皇は和子の生んだ興子内親王に譲位、急報に接した幕府は翻意を促したが失敗、以後、幕府は天皇の恣意的な皇位継承権を回避するため、より意思疎通の容易な人物を天皇周辺に配置するようになった。


 譲位後、天皇は仏道に励み、延宝8年(1680年)、85歳で崩御、昭和天皇が昭和64年(1989年)に86歳で崩御するまで、歴代最年長の天皇であった。


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