概要
常陸国にあった藩で御三家の一つ。もともとこの地域は佐竹家が治めていたが、江戸に近い場所に外様大名がいるのは危険と判断されたのか秋田に移封されてしまい、水戸には徳川家が入った。それと同時に常陸で獲れていたハタハタが取れなくなったという信憑性の低そうな逸話もある。ちなみにハタハタは現在は秋田の名物として知られている。
水戸藩の代表的な事業といえば大日本史である。日本の歴史を書物にまとめるという大プロジェクトは1657年に開始し、廃藩置県で藩がなくなっても続き、完成したのは1906年である。これが幕末の尊王攘夷思想の礎になったと言われている。
また第9代藩主である徳川斉昭が日本最大規模の藩校である弘道館の設立や、それに対する施設として日本三名園の一つである偕楽園を設けたことでも知られる。
実質的な石高が名目上の石高よりも低かったという珍しい藩である。御三家の石高が低いのではメンツが立たないかもしれないが、財政面では大きなデメリットとなる。藩の財政は逼迫していて、八公二民(80%が年貢として持っていかれるという意味)というとんでもない税率が設定されていた。普通は四公六民から五公五民ぐらいである。
幕末の前半は水戸藩に関連する人物が歴史の表舞台にたびたび登場するが、藩内の尊王攘夷運動に伴う抗争や粛清で人材が失われたこともあり、後半はほとんど登場しない。
徳川御三家の一角である水戸藩は、全国の藩の中で唯一参勤交代を免除されていた。しかしその代わりとして 藩主は領地の水戸ではなく常に江戸に定住する義務を負っており、日常的に代々の将軍に仕えていた。 それゆえ、将軍の補佐役としての意味合いが強いことから 「天下の副将軍」とよばれた。
但しこれは幕府から水戸藩主に対して与えられた正式な地位ではなく、上記のような事実から付いた俗称である。