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名鉄瀬戸線の編集履歴

2019-06-16 00:19:20 バージョン

名鉄瀬戸線

めいてつせとせん

名古屋市東区の栄町駅と、愛知県瀬戸市の尾張瀬戸駅までを結ぶ名鉄唯一の飛び地路線。 名鉄統合後も長く「瀬戸電」という通称で呼ばれていた。

概要

この路線は現在は名古屋鉄道が運営する鉄道であり、栄町駅-尾張瀬戸駅間(20.6km)を結ぶ全線複線・電化路線である。

名古屋の繁華街・栄に乗り入れることもあり、現在の名鉄における稼ぎ頭の路線のひとつでもあるが、名鉄の他の路線とは接続していない(他社の鉄道とは連絡しているが乗り入れはしていないし、現在はそれらとも接続がない)ため、特殊な車両が運用されていることでも知られる。


歴史

創業期~戦前

この路線は瀬戸近辺で製造される陶器(いわゆる瀬戸焼)を輸送するため、鉄道を熱望していたものの、中央本線のルートからはずされてしまった。

そこで、現地の実業家たちにより、軌道を敷設することになり、1905年、瀬戸自動鉄道を立ち上げ、瀬戸から矢田までを開業する。1906年にはが架かり大曽根まで開業する。

当初は電化されておらず、気動車を使用(蒸気機関駆動の蒸気動車であるが、これが日本初の気動車による運行)していたものの、性能の問題(ボイラーが小さ過ぎて十分な出力が出ずいわゆるエンスト状態にしばしばなった。当時の方言で、「ジラを起こす」と揶揄されている)により1906年に電化を計画、瀬戸電気鉄道と名を改め、翌年直流600vで電化される。

このときの略称「瀬戸電(せとでん)」が強く定着した結果名鉄統合後相当長期間経った平成の初めでも通称として存在し、平成末の今でも一応通じる。

ところが中央本線は線路はあったが大曽根駅がまだ開設されていなかった(当時の両隣、千種(ちくさ)勝川は開通と同時の1900年開業だが、大曽根駅は1911年の開業)ため、名古屋の中心まで直接鉄道を敷設する必要が出てきた。いくつかのルートが検討されたが、名古屋城の外堀(空堀)沿いに鉄道を敷設し、堀川で船に積み替えるということを計画し、1911年にこの区間(通称:お濠電車)が開通した。なお、この区間に関してはあまり広くない堀を通したためとんでもない急カーブ(通称:サンチャインカーブ・半径約3チェーン(ヤード・ポンド法の単位で1チェーン=22ヤード=20.108m)≒60m)や、複線を互いに重ねる形で敷設した単複線(ガントレット)も存在していた。

※半径60mは1/80で750mm、1/150で400mmという鉄道模型で使うような急曲線である。


また、路線の小牧方面、瀬戸以遠の延伸が計画されていたものの、前者は却下、後者も着工にいたらず実現しなかった。

1921年、軌道法による路面電車から地方鉄道法による鉄道に変更される。これは名古屋市による路面電車買収に対抗するためと思われる。

また1929年には複線化(瀬戸-大曽根間、お濠電車区間は一応複線扱い)するなど、好調を維持したものの、その後国鉄バスなどの路線バスの進出および世界恐慌の影響により経営は悪化する。

戦時中-名鉄線に

日中戦争のさなかである1938年「陸上交通事業調整法」(いわゆる戦時統合)が制定されるが、行政指導以前の1935年、中部地方の大手私鉄であった名岐鉄道愛知電気鉄道の合併により現在の名古屋鉄道(二代目。初代名鉄は前述の名岐鉄道の前身)が誕生していた。そこで1939年、瀬戸電気鉄道はその名古屋鉄道に合併、路線は同社の瀬戸線となり、戦後も分離独立することなく(可能性はないとは言い切れなかった)現在に至る。

戦後の状況

第二次世界大戦後、陸上交通事業調整法が廃止された後も名鉄の一員として歩み始めた瀬戸線は他の路線とは異なり速やかに復旧した。

ところが特に大曽根以遠の線形は悪く、それに伴い脱線事故も発生したためそれを修正する必要が出てきた。

そこで名古屋市と協力する形で名古屋市電乗り入れによる接続(これにより小牧線と連絡する予定であった)が計画され、一部区間はそれにより1956年に新路線となったものの、費用の分担の問題や名鉄側が主導して路線を引こうとしたためそれはなかったことになった。

またこの時代には他の名鉄路線から転属旧型車などが導入(瀬戸電気鉄道時代には、昭和初期に製造された車両電車の中では一番新しい状態であったこと、本線などでは1500Vへの昇圧が行われ以前に使用されていた電車が余剰となっていたことが原因である)され、古い電車・珍車好きのファンの方々のたまり場になっていたといわれる。

  • 戦時中のガソリン使用統制(実質禁止)の名残である気動車改造の制御車
  • 全金属HL車に部品を供出したあとの半鋼製車体に、別の木造AL車の電装品をつけ直した車両が看板列車(昭和初期の車体に本線特急ばりの転換クロスシートを装着)
  • 電車の自動ドア化も遅く、昭和40年代初頭、まず上述の優等列車からようやく自動化
  • お堀電車区間は都心とは思えないほど緑も多く、実質的ターミナルであった大津町より西では極めてのどか

こういった光景が極当たり前だったのが昇圧前の瀬戸線である。


栄乗り入れ・昇圧

瀬戸自動鉄道当初からの営業目的の一つであった貨物輸送も、1500V電化への変更直前の1978年2月まで行われていた。

ただ、最後まで残った輸送品目は陶磁器そのものではなく、硅砂という原料素材であった。

この時分になると、瀬戸線も旅客輸送が主体に切り替わっていた。

それに対し都心側ターミナルが他線とつながらず(官庁街に近い大津町駅はあるものの)都心の栄にも直結していなかった。これを改善するのが名鉄側の懸案となっていた。

プランとしては、名城線に乗り入れる、というものもあった。

名鉄も改軌すら厭わなかったのであるが、肝心の名城線は第三軌条集電である上、東山線同様に銀座線を範とした小断面限界なため既存トンネルの空頭が極小さく、国鉄でいうPS23のような低限界パンタグラフすら後付でねじ込むスペースがまったくない。したがってかつての碓氷峠のように集電装置を使い分ける(地下区間で畳む)という便法がとれず、そのまま無理に直通しようとすれば尾張瀬戸まで全て第三軌条集電に変更となる。しかしここはあらかた地上線で踏切も多数ある。危険で不可能と判断された。


名鉄と名古屋市の協定(東大手駅 - 栄町間に名鉄が名城線に並行したルートを地下路線で敷設することを承諾し、引き換えに名鉄が持っていた八事 - 赤池間の免許を譲渡する)により栄町への乗り入れ開始、それに伴うお濠電車区間の廃止という現在の方向へと計画が変更された。

これにより作られることとなった新線区間の架線は、剛体架線ではなく、都営地下鉄各線に見られるコンパウンドカテナリ式の饋電吊架線によっている。

栄乗り入れ計画の当初では、昇圧せず乗り入れる案もあったが、都心区間が法的に地下鉄であるため半鋼製車両だらけではどのみち車両の総取り替えをせねばならず、最終的に現在の形態となった。

それゆえ昇圧直前・直後に新旧の車両を留置する場所が必要であり、昇圧直前に廃止した貨物輸送のためのヤードがその留置場所として活用された。


そして1976年2月まずお濠電車区間の廃止(工事用地にかかるためである)、1978年の1500V昇圧(3月)および栄町への乗り入れ開始(8月)と現在の姿へ変貌する。


しかしそれでもなお3730・3780系(二代目の吊り掛け駆動車両VVVFの三代目とは異なる)や6600系を投入、そして名鉄最後の吊り掛け駆動車両6750系などの登場、さらには遅れて登場した6000系など、当線の車両の特異性が薄れることはなく、鉄道業界ではかなり有名な路線と言える。

昇圧直後転入の3780系は元々地上線の電車だったものを地下鉄対応車両に改造したものである。尤も既に全金属車体のため、改造項目は主ヒューズの屋根上化・窓の開口制限などにとどまる。

なお、当初構想では6600系2両編成15本が製造される予定であったが、栄町延長の建設費高騰で、2両6編成に留まり、不足分は本線で使い難かった3780系やHL非冷房の3730系・3770系が導入された。6600系も登場当初は非冷房車であった。これは同系が線内では相対的に加減速度が高い車両であり、普通列車等頻繁にドアを開け閉てする列車に使うことが多かったためで、入線当初より冷房車であったのは昇圧・栄乗り入れ時点では優等列車主体の3780系のみであった。


平成26(2014)年4月には車両がステンレス車の4000系(平成20(2008)年より導入)に統一され、名鉄伝統のスカーレット一色の車両はすべて姿を消した。

このまま4000系の天下だと思われたのだが、名鉄の2015年度以降の事業計画において高架工事の運用増のために名古屋本線等で活躍されている3300系(VVVFの三代目)1編成を瀬戸線にも新造して投入、4000系の天下も僅か1年弱でいったん終了している。再び4000系天下になるのは工事終了後の3300系転属後か、それともまたスカーレットが復活するのか、それは誰にもわからない。ただ尾張旭検車区には住宅街にあるという立地条件から塗装設備が設けられなかったので、スカーレットがもし復活するとなればラッピングになるだろう。


現行のダイヤと駅一覧

すべて4両編成での運転。

昼間には、普通を15分間隔(半数は栄町~尾張旭の区間運転)、急行と準急をそれぞれ30分間隔で運行しているが、朝夕は準急と普通が増える分、急行の運転がない。

特に平日朝方ラッシュ時の栄町行は、普通のみの高頻度運転が行われる。これはほとんどの駅のホームが4両分しかない上に延長が難しいばかりか、待避線を持つ駅が現時点で1駅もない(厳密には喜多山駅の栄町方向のホーム2・3番線が該当するが、3番線のホームが短すぎるため現在3番線は使われなくなっている)という欠点を補うための措置であるといわれる。

このほか、区間運転では栄町~喜多山、朝方に喜多山→尾張瀬戸、尾張旭→尾張瀬戸、三郷→栄町の便もある。


600V時代は2両編成がメインで特急の運転もあったほか、1500Vになってからも2両編成の列車が残されていたが、栄に乗り入れるようになってから利用客が大幅に増えたこともあり、2両運転はすでにない。

先述の通り待避線は実質ないため、600V時代も今もどの電車に乗っても先発の電車が先着する。特に600V時代は電力設備も貧弱であったし、まだ貨物列車もラッシュ時以外で走っていたため阪神のような極端な高加減速車を入れるわけにもいかなかった。朝ラッシュにも特急その他「優等」列車が走っていたが、この時間帯は「所定」の停車駅で走るものがごくわずか、殆どは「特別停車」の名目で停車駅を適宜分散させて走行していた。いわゆる「千鳥停車」でアメリカ東海岸の都市近郊鉄道で使われることが多い手法である。


現在の駅一覧


過去に存在した駅

堀川 - 本町 - 大津町 -(東大手(初代))-土居下-(土居下(仮)) - (清水)


この区間がいわゆる「お濠電車」区間と呼ばれる。堀川駅までの乗り入れはあまり多くなく、大津町駅が実質的なターミナルとなっていた。大津町駅から濠の上へ出ると、愛知県庁はすぐ横手である。

部分廃止から相当経過した現在も、大津町駅の遺構が残されており、名鉄により厳重に管理されている。

初代の東大手駅は、戦後当該箇所にホームの遺構すらなかったが戦時中の電力節減で休止扱いとなっていただけであるため、この駅の復活扱いで今の地下駅が設けられた。

土居下(仮)は本来の土居下駅が濠の中であるため工事に支障し、濠の外側で折り返す必要があったため設けられたもの。勿論手続き上、本来の場所にあった旧駅の移転扱いである。ここからでも大津町駅至近の官庁街は1kmと離れておらず、名鉄側は大多数の旅客は歩いて出勤するであろうと踏んでいたが、ラッシュ時の大津町駅昇降客数に見合った代替バスの運転を求められる結果となった。


関連項目

名古屋鉄道 瀬戸線 名古屋市

東武アーバンパークライン:独立路線、投資後回しの冷遇路線、専用車両の完全新車導入と共通点が多い

國鐵廣嶋:本社より投資が冷遇され、専用車両の完全新車導入繋がりで

参照

wikipedia:同項目およびリンク先

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