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北条氏邦の編集履歴

2019-07-02 07:23:58 バージョン

北条氏邦

ほうじょううじぐに

北条氏邦とは北条氏康の三男で、元服当初は義父・藤田康邦の後を継いで藤田氏を継いでいた。小田原征伐では鉢形城に籠城して豊臣軍と戦うが降伏した。(1541年-1597年)

概要

1541年、相模の戦国大名・北条氏康の三男(本来は四男)として誕生した。幼名は乙千代丸(もしくは千代丸)。姉に早川殿、兄に北条氏政北条氏照がおり、弟には北条氏規北条氏光北条氏忠北条氏秀がいる。


1550年代に父・氏康が山内上杉家の勢力を関東から一掃した際に降伏した山内上杉家臣・藤田康邦の娘を娶って元服し、藤田氏邦と名乗って藤田氏の名跡を継承した。


兄・氏照と同じく武勇・統治に優れており、北関東の最前線と上野方面の軍事を任された。武田信玄との三増峠の戦いをはじめ各地を転戦して武功を挙げ、北条家の領土拡大に大きく貢献した。


しかし藤田康邦の実子である用土重連(氏邦とは義兄弟の関係)とは次第に確執が生じ初め、1578年に重連が沼田城代に任命された事に激怒。まもなく重連を暗殺に追いやるが、その事が2年後の1580年に重連の実弟・藤田信吉が武田に寝返る原因を作ってしまった。


1578年には上杉家の相続争い(御館の乱)にて上杉景勝と実弟・景虎の争いが始まると、景虎の援軍要請に応じて長兄・氏政の名代として次兄・氏照と共に出陣し、坂戸城へ攻め入るが景勝方の守備が強く更に冬が近づいた事によって撤退を強いられる事となった。この敗北によって翌年に景虎は景勝に敗れて自害するという悲運を辿った。


1582年の本能寺の変後の神流川の戦いでは甥・氏直を補佐して滝川一益を敗走させ、同年に起こった天正壬午の乱でも参戦した。1589年には豊臣方の宇都宮国綱を攻撃したが、数ヶ月後に和睦した。


翌1590年に起こった小田原征伐では大規模な野戦に持ち込む事を提案するが、結局は反対されて鉢形城に籠もって抗戦を図るが、前田利家の率いる大軍に攻められて降伏する。戦後は利家の助命嘆願で剃髪する事で一命を取り留め、能登に1000石を得た。


1597年、加賀金沢にて氏邦は56歳の生涯を閉じた。実子は4人もいたがそのうち3人が早世していた為に末子・庄三郎が父の知行を継いだ。また氏政の子で養子としていた直定は徳川家に属し、こちらの子孫は紀州徳川家の家臣となっている。


戦国無双での北条氏邦

武器:刀剣 CV:岡本寛志(2、4) 草尾毅(3)


「北条の底力、見せるは今ぞ!」(3猛将伝・ガラシャの章:忍城攻めより)

「は…お嬢ちゃん、ありがとう!」(ミッションクリア時の台詞)


1作目の猛将伝では今川義元の無双演武で兄2人と共に登場し彼ら3人を倒す「北条三兄弟」というミッションがある。


戦国無双3猛将伝』のガラシャの章では忍城攻めの援軍として登場し、ミッションの条件の1つである「北条氏邦が敗走する前に、真田幸村とくのいちを倒せ」をクリアすると父・氏康から先走った事を注意されるが、その一方でに感謝しておけと言われてその際に上記の台詞を呟いている。


戦国無双4では、兄2人とそろって固有グラフィックの一般武将として登場した。

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