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弥助の編集履歴

2019-07-13 23:30:27 バージョン

弥助

やすけ

戦国時代に織田信長に仕えたアフリカ人の小姓。

概要

天正9年2月23日(1581年3月27日)、宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ織田信長に面会した際に黒人奴隷を連れていて、始めて見る黒人に興味を持った信長は、褐色肌が墨で塗られたものと思い、家臣に命じてその黒人の肌を洗わせたという。宣教師の説明を受けても理解が難しかった信長だったが、これを機にその黒人を気に入って、宣教師から譲ってもらったという。


年齢はおよそ20代後半で、身長は約187cmという巨体の力持ち。極めて俊足であり、当時平均身長160㎝にも満たなかった日本の武士たちの10倍怪力を持っていたとされる。信長はその黒人を「弥助」と名付けて、小姓としてそばに置いた。片言の日本語が喋れたらしいが、日本の習慣にはなかなか慣れなかったらしい。弥助は下人や奉公人のような立場ではなく、私宅と腰刀を与えられ武士と同じ立場であった。イエズス会の報告によると信長は弥助を将来的には城持ちの家臣にしようと考えていたという。


天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀による謀反「本能寺の変」が起こった際、弥助も信長のそばで奮戦したが、二条御所の織田信忠へこの事態を知らせよと信長から最後の命を受け本能寺を脱出、信忠へと変事を伝えた(このことから、変の発生した時点では若干の意思疎通ができる程度の日本語を身につけていたようである)。その後は二条御所で明智軍と交戦するも捕縛され、家臣達から処分を聞かれた光秀は「動物同然の奴隷で何も知らず日本人でもない」との理由で処刑はせず、「インドの聖堂に置け」との指示で南蛮寺(教会)に送られ一命を取り留めたという。その後の消息は不明。


この処遇について、現代の感覚では黒人に対する蔑視とも取れるが、比較文化学者の藤田みどりは弥助を憐れんだ光秀が、彼を殺さずに逃がすための方便だったのではないかという解釈を主張しており、また弥助を南蛮寺に送った事からイエズス会との関係を良くしたい光秀の政治的な思惑があったと解釈する意見もある(結局処刑しなかったことを考えると、それらの可能性は有力である)。


日本史上に名を残した数少ない実在のアフリカ人である。


後世(特に現代)での扱い

フィクションの作品では本能寺の変を生き延びた珍しい人物であるために、信長の最期を扱った作品にしばしば取り上げられる。本能寺で起きたことを語り伝える役回りが多い(ただ、知名度の低さや本能寺の変後の消息がはっきりしないことから、最初から出てこなかったり、信長を庇って討ち死にする作品も少なくない)。なお本能寺の変から生き延びたのは弥助だけではなく、女性たちは脱出したほか、武士の一部も生き残っている。


TBSのテレビ番組世界ふしぎ発見では、彼の故郷とされているモザンビークに日本の着物と良く似た「キマウ」という衣装が存在することに注目し、さらに彼の故郷と思われる村に「弥助(ヤスケ)」と語感が似ている「ヤスフェ」という名前の男性が複数人いたことから、彼が故郷へと帰り着き、その際に日本文化を伝えたのではないか、という仮説を紹介した。根拠には乏しいものの歴史ロマンに溢れる説である。


2017年アメリカ脚本家マイケル・デ・ルカ氏がこの弥助を主人公にした映画『ブラック・サムライ』の制作を発表。現在撮影中。


関連タグ

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アフリカ 黒人 奴隷 小姓

織田信長 明智光秀 織田信忠 森蘭丸

大帝の剣 へうげもの 信長協奏曲 殿といっしょ 天翔のクアドラブル

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