概要
別名、久松城、久松山城。
天神山城の出城だった説もある。
尼子氏や毛利氏らが争い、1580年には豊臣秀吉側につくも家臣は納得せず山名豊国を追放し、吉川経家を招聘。
ここにあの有名な鳥取の飢え殺しにさらされることになるのである。
その後は秀吉の側近宮部継潤に城代となり、1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となったが、関ヶ原の戦いで宮部氏が西軍についたため改易。池田長吉が城主となり近世城郭として整備された。
城郭の改修時に、山頂の本丸に二重の天守、山麓の二の丸に三重の御三階櫓が建造され、これに続いて多門櫓と二重櫓が並び、その景観は明治の古写真にも記録されている。
明治の廃城令によってこれら以下すべての建築が破却され、城址は学校となった。
近年、学校の裏口となっていた大手門跡を復元する計画が実施中で、2020年現在堀にかかる木橋を復元中である。
石垣の修復のために作られたという球体の石積み「天球丸」が存在する。