万延元年、尾張藩海東郡佐屋の代官手代席服部重文の子として生まれた。
幼名を総吉と言い、明治5年に加藤家の養子となった。
明治7年に高明と改名し、東京外国語学校、東京開成学校を経て、明治14年に東京大学法学部を首席で卒業したが、卒業後は、当時としては異例の実業界に入り、三菱本社に入社した。
ここで岩崎弥太郎の知遇を得、明治16年イギリスに留学し、リバプール港で豪商ボースについて廻漕業その他を学んだ。
在英中には、陸奥宗光とも知り合った。
明治18年に帰国して三菱本社副支配人として郵船会社に入り、弥太郎の長女・春治と結婚した。
明治20年、陸奥宗光の請を容れ、大隈重信の秘書官兼政務課長となり、以後外務畑の階梯を昇ることになる。
この時、条約改正の立案に参画した。
明治23年大蔵省参事官、局長を歴任。
明治27年に再び外務省に転じ、駐英特命全権公使として赴任して、明治32年に帰国するまで四年にわたってイギリスに滞在した。
この間、日英提携、対露強硬政策を唱え、帰国後、明治33年8月、第四次伊藤博文内閣の外務大臣となり、日英同盟を推進して、ロシアの満洲進出に抵抗した。
明治34年に第一次桂太郎内閣が成立すると外相を辞任したが、明治39年1月に第一次西園寺公望内閣が成立すると再びその外相となった。
この頃の加藤は、反桂内閣の立場をとり、政友会と憲政本党との中間にあって民党連合のために奔走していた。
明治37年には東京日日新聞社長となり、内政外交に堂々陣を張った。
第一次西園寺内閣で再び外相となったことは、加藤が反軍閥・反官僚の立場を持っていたことを示している。
しかし第一次西園寺内閣時代では、鉄道国有問題で政友会と対立して外相を辞任し、立場としては一貫して三菱をはじめとする財閥の利害を代表していた。
以後は急速に桂太郎に接近していき、明治41年の第二次桂内閣では駐英特命全権大使に任ぜられ、日英同盟の改定に尽力、明治44年8月その功績により男爵を特授した。
英国滞在は五年に及んだ。
大正元年、第三次桂内閣では外相となり、桂と共に立憲同志会をつくり、桂の死後に総裁となった。
大正3年4月、第二次大隈重信内閣の外相となり、第一次世界大戦に際して対華二十一か条要求を出した。
その後、大正5年に憲政会を組織して総裁となり、憲政の常道、元老政治の打破、選挙権の拡張を唱えて元老と対立した。
その後約10年間は政界に孤立し、苦節の時期が続いた。
大正13年、枢密院議長清浦奎吾による政友本党、貴族院による特権内閣を組織した時、加藤は革新倶楽部、政友会と共に護憲三派を結成してこれに対抗し、大正14年にこれを破って、遂に自ら内閣総理大臣として三派内閣を組織した。
この時の三大政綱が普通選挙、綱紀粛正、行政整理であったが、この時に普通選挙法と同時に制定されたのが治安維持法であった。
間もなく加藤内閣は閣内紛争の為に大正14年7月総辞職。
8月に第二次加藤内閣が成立したが、翌年1月、在職中に病没した。