ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

五大老の編集履歴

2020-06-28 22:45:56 バージョン

五大老

ごたいろう

豊臣政権下において、豊臣秀吉が嫡男・秀頼の後見役に指名した5人の有力大名。

概要

晩年の豊臣秀吉が嫡男・秀頼の後見役に指名した5人の有力大名。

豊臣政権下において実務を担当した「五奉行」が秀吉子飼いの譜代大名であるのに対し、「五大老」は上杉景勝宇喜多秀家を除いて秀吉に敵対したことがある外様大名である。

江戸城主。関東一円に256万石の領地をもつ大大名。

秀吉死去の時点の官職は内大臣

小牧・長久手の戦いでは秀吉に敵対したが和睦、秀吉に次ぐ実力者となる。

金沢城主。加賀・能登100万石を領し、秀頼の傅役を務める。

ともに織田信長に仕えたが、秀吉と柴田勝家の対立のおりには勝家方についたことがある。

秀吉の死後、対立する武断派と文治派の仲裁に動き、家泰雄けん制に動くが間もなく死去、武断派は家康方につき、翌慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いにつながっていく。

利家の死後、利家の嫡男・利長が五大老となる。

広島城主。安芸・周防・長門・石見・出雲・隠岐に加え備中・伯耆の西半分計112万石を領する。

叔父・吉川元春小早川隆景兄弟の補佐を受け、領国を治めるが、秀吉死去の時点には両者とも亡くなっている。

会津城主。越後・佐渡、信濃川中島四郡、出羽荘内三郡、米沢の計120万石を領する。

備前岡山城主。備前・美作・備中半国・播磨三郡の計57万4000石を領する。

宇喜多直家の次男。毛利家と敵対関係にあることから、直家は織田信長に誼を通じて本領を安堵され、宇喜多軍は秀吉の配下に組み込まれる。

信長の死後、秀吉の猶子となり、元服のおり「秀」を与えられて「宇喜多秀家」を名乗る。

関連タグ

安土桃山時代 豊臣秀吉

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました