概要
播州赤穂藩家老。1701年(元禄十四年)4月、勅使饗応役に任じられていた藩主浅野長矩が、高家の吉良義央に江戸城・松の廊下で切りつけたことにより、内蔵助の運命は大きく変わる。浅野長矩は即日、切腹させられ、赤穂藩は断絶、吉良義央は特におとがめなしとされた。
藩主切腹の知らせが届き、混乱する藩士たちをまとめ、内蔵助は城明け渡しの事務手続きをまとめ上げた。その後、赤穂藩を去り、京都の山科で閑居しつつ、長矩の弟・浅野大学長広の御家再興に向けて、働きかけた。しかし、1702年7月、長広が本家・広島藩に永年お預けになることが決定したことを期に、吉良義央を討つことに方針転換、江戸に向かった。
1702年12月14日夜、義央の館に討ち入る。その数、四十七名。翌15日の朝に義央を討ちとると、浅野長矩の墓がある泉岳寺に詣でた。
仇討をした内蔵助らは四家に分かれて預かりの身となった。1703年2月、全員切腹という幕府の裁断がおりた。2月4日内蔵助は預かり元の細川家で切腹した。
大石内蔵助ら四十七士の討入りは、その後、歌舞伎、映画、ドラマなどで頻繁に題材にされる。ちなみに、幕末の新選組の羽織のデザインは、赤穂浪士を見習ったものである。
ちなみに赤穂藩家老時代は「昼行灯」とあだ名されるほど、平凡な人物であったようであり、昼行灯の代名詞にもなっている。