概要
陸奥会津若松城に藩庁を置いた藩。親藩(初期は外様)。表高23万石。
鎌倉時代以来この地は蘆名氏の領地であったが、伊達政宗によって滅ぼされ、小田原征伐後は蒲生氏郷、上杉景勝がこの地を領した。関ヶ原の戦いの後蒲生秀行、加藤嘉明が領したが、お家騒動によって除封され、1643年、将軍徳川家光の異母弟保科正之が入部してからは保科(松平)氏が9代にわたり藩主をつとめた。
藩校の日新館の方針は厳しかった。完全な実力主義で、成績が良ければ飛び級のようにどんどん先に進めたのに対し、成績が悪いと20年以上経っても卒業させてもらえなかった。心得の中にある「ならぬものはならぬ」という文言は有名。
前述の経緯から江戸幕府と一蓮托生ともいうべき間柄の藩で、幕末の1862年、9代藩主松平容保は京都守護職に就任し、佐幕派として活躍した。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中核となって新政府軍と戦い、会津戦争で老人や白虎隊などの若年兵、斎藤一達新撰組、娘子軍の中野竹子や川崎八重のような女性までも動員して新政府軍に徹底抗戦するも敗北した。
改易の後、1869年に陸奥斗南(青森県の下北半島)3万石に移り再興したが、本州最北端での生活が苦しかったことは言うまでもない。なお、明治政府に下北半島での再興を命じられたわけではなく旧会津藩士の間で自らこの地を選んだ。そちらへは行かずに会津に残った藩士もいる。