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ジンバブエの編集履歴

2020-12-24 03:49:49 バージョン

ジンバブエ

じんばぶえ

アフリカ南部に位置する国家。 テレビをはじめとする各種メディアでは取りざたされることが少ないが、記事の内容の理由から日本でも有名な国となっている。

概要

正式名はジンバブエ共和国。

元々はローデシアと呼ばれていたが、独立後に世界遺産でもある「グレート・ジンバブエ(大いなる石の家)」から国名を取った。


通称ジンバブエ。首都はハラレ。

アフリカ大陸南部の内陸国の一つであり、元々はイギリスの植民地であったため、2003年に脱退するまではイギリス連邦の加盟国だった。


特に初代首相、2代目大統領を務めたロバート・ムガベが著名な人物であり、1980年にイギリスから独立して、ジンバブエ共和国が成立以来37年の長期に渡って権力の座につき続けた独裁者。

しかし、2017年11月の国防軍によるクーデターで失脚した。


ジンバブエの奇跡

イギリスからの独立後、ムガベ大統領の元でジンバブエは白人への融和政策を主軸に、白人社会からの協力も得て順調に経済運営を行い、教育や医療に資金を充てたことで低い乳児死亡率とアフリカ最高の識字率を達成し、高い教育水準と豊かな経済を達成したアフリカでの黒人による国家建設のモデルとされ、「ジンバブエの奇跡」とも称された。

しかし、それから二十年後、事態は一変する。


インフレの代名詞

ジンバブエが一躍有名となったのは、経済政策の失政によるハイパーインフレーションである。

2000年代に入ってから起こったこの激烈なインフレにより、国内が混乱すると同時に、その経済の混迷ぶりが世界的に有名になってしまった。

法定通貨であったジンバブエドルの価値の下落は激烈とか強烈とかいうよりも、もはや激甚災害と言ってもよいレベルであり、極めつけとして「100兆ジンバブエドル札」が発行されすらした。

インフレ率は公式で2億3100万%、民間推計だとインフレ率1京200兆%。最終的には897垓%とも。実質的には65の後に0が108個つく数値になった。

2008年11月だけで8億円が1円になる数値を叩き出していたが、2009年には遂に発行自体が停止されることになってしまった。

この動画の4:12頃から見るとそのヤバさが分かるだろう。


インフレが起きるまで。

何故、ジンバブエドルがこれほどのインフレを起こすまでに至ったのか。それは、一言で言えば、ムガベ大統領が大量に金を刷ったから。基本はこれに尽きる。

では、そんなことをしたムガベ大統領はこんなことも理解できないほどの無知無能な人間だったかと言えば、事はそう単純ではない。

物事には、順序と言うのがある。元々ムガベ大統領はジンバブエの独立から経済成長までを支えた優秀な指導者であり、白人との協調によって経済を安定させた人物である。実際、経済学士の学位を取得しており、インフレの理屈を理解できないはずもない。

にもかかわらず、なぜこのようなことを行ったのか?それはムガベ大統領の政治姿勢の変遷とともにそれを見れば、その理由がよくわかる。


経済破綻

そもそも、ジンバブエ独立の立役者であり、白人社会との融和政策を打ち出したムガベ大統領だが、実は元々は過激なテロリストであり、あの「マルクス・レーニン主義」を掲げたゲリラ兵である

つまり彼は、元々白人社会に対して暴力的手段に訴え出ることに抵抗が無く、このことが後のインフレーションにつながる伏線になっている

彼は、当時敷かれていたアパルトヘイト政策を敷いていたローデシア政府に反発して、武闘派の政治組織を結党しており、時には政治犯として捕まることもあった。


その後、1980年にイギリスから独立してジンバブエを建国に導いたムガベ大統領は、ゲリラ時代の主義思想を捨てて白人社会との融和政策を採択し、高い教育水準と医療水準を両立し、経済も安定させることに成功する。

このころ、ジンバブエドルのレートはむしろ高い方で、1980年には1ドル=0.68ジンバブエドルであった。かつての宗主国であるイギリスのポンドのレートが1ドル=2.326025ポンドであることと比べれば、如何にジンバブエドルが貴重であったかが分かる。

建国当初のジンバブエを支えたこの福祉国家政策は、およそ10年間は機能したが、90年代に入ったあたりで財政が破綻し、経済政策の転換を余儀なくされる。

しかし、これにより庶民の生活は徐々に悪化していき、時期を同じくして隣国であるコンゴの地下資源を目的に、コンゴへの派兵を行う。

だが、コンゴ派兵に専念するあまり、内政をおろそかにしたこともあって、市民の不満が無視できないほどに大きくなってしまう。

こうして新たな経済政策として、ムガベ大統領は2000年、ついに白人農園の強制徴収を開始した。

そしてこれが、後のハイパー・インフレーションの始まりとなった。


そしてインフレへ。

2000年に白人農園の強制徴収に踏み切ったムガベ大統領であるが、これによって巻き起こったのが、食糧危機である。

元々、農業技術の殆どを掌握していた白人が事実上の追放処分となったことで、農園こそ手に入ったものの、肝心の農業従事者は何をどうすればよいのか全く分からない状態であった。

その状況の中で、例年と同じ収穫を手に入れるなどまず不可能なことであり、これによりジンバブエの農業そのものが壊滅的な打撃を受け、食料そのものが不足するようになる。

こうして、ジンバブエドルのインフレが始まった。


すなわち、食料が不足する→食料の値段が高くなる→大量に通貨を発行する→ますます食料の値段が高くなる。と言う悪循環が発生する。

このころからジンバブエドルのインフレが始まるようになり、2006年には、1ドル=1.842518ポンドに対して、1ポンド=100万ジンバブエドルと等価にまでジンバブエドルの価値が下落した。

ちなみに、2006年当時の日本円の価値はざっと1ポンド=200円。この時点で、1円=5万ジンバブエドルという事になる。


そして2007年。ムガベ大統領は生活物資の不足に拍車をかけるような政策を展開する。

それが、2007年6月に出された「価格統制令」と同年9月に出された「外資系企業の株式強制譲渡法案」である。

まず6月に出された「価格統制令」だが、これはインフレ対策として政府が「ほぼ全ての製品・サービスの価格を強制的に半額にする」というものだった。しかしながら、これは企業の利益を無視して無理やり製品やサービスを半額にする政策であり、要は物を売れば売るほど赤字になって倒産すると言う、商売人からすれば地獄の政策であった。

物を売っても地獄、売らなくても地獄。となれば、少しでもましな地獄を選びたいのが人情であり、結果、誰も物を売らなくなってしまう。こうして、物を売らなくなった国内企業は次々に倒産していく羽目になった。

そして9月に出された「外資系企業の株式強制譲渡法案」。これは、ジンバブエに進出している外国企業の株式のうち、過半数をジンバブエの黒人に強制的に譲渡しなくてはならないという内容の法案であり、こんな法案のある国で他国の企業がまともな商売ができるはずがなく、外資系企業の殆どがジンバブエから撤退してしまう。

その結果、外資系企業と国内企業の双方を叩き潰したことにより、ジンバブエからは物を売る人間そのものがいなくなってしまうことになった。

こうして、生活物資の不足が更に深刻化したジンバブエには、第二次世界大戦以後、最悪のハイパー・インフレが完成することになった。


インフレの根本的な原因

さて、こうしてみるとわかるが、このハイパー・インフレの問題の根底にあるのは、ムガベ大統領の黒人優遇政策である。

インフレのきっかけであった白人の農園の徴収も、ジンバブエ経済にとどめを刺すことになった外資系企業への締め付けも、言って見れば黒人以外を差別することが発端となっており、そしてそれは既にインフレが発生する前から兆候があった。

ある意味で、なるべくしてなったのが現在のジンバブエであり、白人への憎しみから白人を弾圧し、その結果自分すらも苦しめることになったという、なんとも業の深い失敗であるのだ。


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