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あさま山荘事件の編集履歴

2021-02-06 17:47:34 バージョン

あさま山荘事件

あさまさんそうじけん

1972年2月19日から2月28日にかけて起きた籠城事件

概要

連合赤軍のメンバーである坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久が河合楽器の「浅間山荘」(正式には河合楽器健康保険組合の所有する「軽井沢保養所浅間山荘」)に当時31歳の山荘管理人の妻を人質に立てこもった事件。

山荘を包囲した警視庁と長野県警の機動隊が人質を救出しようとするが難航し、民間人1名と機動隊員2名の合計3名の死者を出し、報道関係者1名と機動隊員26名が重軽傷を負った。事件発生から10日目の2月28日に部隊が強行突入して人質を救出。犯人5名を全員逮捕した。

冬の軽井沢という酷寒の地で繰り広げられる警察と犯人グループの攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで中継され、現在も当時の映像を見ることが出来る。


事件解決後、逮捕されたメンバーの供述から連合赤軍内部の凄惨な同志粛清が発覚し、前年に成田で発生した機動隊員惨殺によって国民間に芽生えた新左翼への嫌悪を決定的なものにし、すでに下火になっていた学生運動に対する目が一気に冷たくなり、新左翼への世間の風当たりも厳しくなった。


エピソード

カップヌードル

マイナス15度にまで気温が低下する冬の軽井沢では隊員に支給された弁当は凍ってしまった。地元住民が炊き出しを行って温かい食事を提供したというエピソードが残っているが、それにありつけたのは外周を警備していた長野県警の隊員のみで、最前線の警視庁隊員には相変わらず凍った弁当しか支給できなかった。

カレーライスを差し入れたら食品サンプルのように凍結してしまい、一旦回収し解凍してから今度はカレーおにぎりにして再び届けたら、届く頃にはやはり凍りついてしまったという。


そこで当時販売が開始されたばかりの日清カップヌードルが定価の半額の50円で隊員に配給された。カップヌードルは手軽に調達・調理ができ、寒い中で長期の勤務にあたる隊員の士気向上にも役立った。テレビ中継で美味しそうにカップヌードルを食べる隊員の様子が何度も全国放送されたことから、「あの美味しそうなものは何だ」と注目され、商品の知名度が向上。販売開始の1971年度には2億円の売上だったのが1972年には67億円の売上を叩き出している。


余談だが、警視庁機動隊は「購入、水汲み、湯沸かし、調理まで全部警視庁がやった」として、長野県警の隊員にカップヌードルを一個も売ろうとしなかった。このため、警視庁と長野県警の間に軋轢を生んだという。抗議がしつこいので県警側にも販売するようになったが、今度は「警視庁の隊員には50円なのに県警には70円とはどういう事か」とクレームがついたという。一応、警察庁から派遣された上級幕僚は「長野県警にはキッチンカーの配備がない(当時キッチンカーは最新装備で、警視庁機動隊くらいにしか配備されていなかった)、あとで予算措置を必ずする」と言って警視庁側を宥めたそうである。他にも会議中に差し入れを警視庁と警察庁にだけ出して県警は飛ばすなど、警視庁と県警の間での小さな軋轢は絶えなかったようである。


長野県警

地元警察である長野県警は自分たちで解決すると意気込んでいたが、長野では大規模な学園紛争や爆弾ゲリラなどが発生しておらず、経験不足だとして警視庁から機動隊と指揮幕僚団が応援派遣された。県警幹部は警視庁に対していい感情を抱いておらず、特に警備二課長は、銃を乱射する犯人グループに県警機動隊が応戦したことについて「警視庁機動隊は撃ち合いの経験はないが、長野県警には一日の長がある」と言い張るなど露骨に反抗的な態度を見せていた(警視庁は銃撃戦の経験こそ無かったが、それまでに東大安田講堂事件に代表される多くの学生運動の鎮圧に出動しており、前年の成田空港予定地の代執行でも最前線に配置されるなど経験値は圧倒的に高い歴戦の猛者であった)。

しかし経験不足は否めず、事件解決までの間に長野県警はいくつもの不祥事を起こしている。

現場最前線に交通違反の無線を繋いだり指揮系統の回線で弁当の催促をするなどはまだかわいい方であり(警視庁からはこういうことが起きるから後方の無線と現場の無線は分離すべきと提案したが、長野県警が無線統制でなんとかできると主張した結果の産物。当然、警視庁側が激怒することに)、「写真は任せろ」と言っておきながら犯人の写真を撮り損ね(担当は関東管区警察局のコンクール入選者だったのだが、入選したのは静物部門)、さらに「まだフィルムが残ってるから」と現像しない、作戦開始の合図を間違って仮眠をとっていた幕僚団を叩き起こし現場に集合させる(信号弾の火薬が湿っており、不発になったため別の信号弾に点火したら不発だった信号弾が復活して打ち上がってしまい、止める間もなく二つ目も発射されたので間違った合図が送られてしまった)、必要な物資を何も持たないまま現場に乗り付け、何度も警視庁に無心に来る(警視庁の幕僚団は機材や物資、息抜き用のおやつなどあらゆるものを用意しており、呆れつつも県警におすそ分けをしてやっていたが、現場の地図がないからと警視庁機動隊が自力で作った地図をくれと言い出した際には激怒した)など事件を長期化させかねないミスを連発した。

挙げ句の果てに無断で強行偵察させた結果機動隊員に重傷を負わせる(特型警備車と機動隊員の連携がうまくできなかったことが理由)など県警幹部が懲戒処分を食らってもおかしくない失態を犯した。この独断行動が決定打となり警視庁が指揮権を握ることになったが、それでも足を引っ張り続けたのは言うまでもない。

また、頑なに長野県警だけでやると言い張っていたのにも関わらず、警視庁機動隊が殉職者を出した途端弱気になり、強行突入の決死隊編成の段階になって県警機動隊長が「部下に死ねなんて言えない」と泣き言を言って志願者の選抜を拒否し、周囲を呆れさせた(幸い、県警機動隊員の中から志願者が現れ事なきを得たとの)。


指揮官表示

当時の機動隊員は、指揮官の見分けがつくように階級に応じてヘルメットに白のビニールテープで階級章を表示していたが、これが災いして犯人側に指揮官を特定されてしまい、結果第二機動隊隊長(警視)と特科車両隊中隊長(警部)が射殺されるという事態を招いた。

目立つので表示を取るという意見が会議で出されたが、警視庁機動隊の各指揮官、特に殉職した二機隊長が「隊員の士気に関わる」との理由で反対したため一度は却下されたが、隊長2名の殉職によって全員が指揮官表示を外した。

この事件をきっかけに、その後機動隊員はヘルメットの後部に小さく階級章を取り付けている。

ただし、ヘルメットの中に被る略帽の階級章はそのまま。


鉄球作戦

解体工事用の鉄球で壁を破壊する場面が有名であるが、実はこの作戦は失敗に終わっている。一撃食らわせたところで、同乗していた機動隊員がバッテリーをうっかり蹴飛ばして壊してしまったのである。現場の隊員が「エンジンが水をかぶった」と報告したが、勿論咄嗟の嘘である。建設機械は悪天候での使用も想定して設計されている為、水をかぶったくらいでは故障しない。

この攻撃は、2階と3階を分断し、銃口を潰すにとどまっており、当初予定されていた「壁を破壊して突入口を開く」という目的は果たせずに終わっている。


また、この作戦は、このあさま山荘事件で初めて提案されたわけではなく、安田講堂事件でも発案されていた。しかしこの事件では、安田講堂が東京都指定の登録文化財第1号であり、破壊するのは忍びないという理由で当時の警視総監から却下されている。


この作戦で使われた鉄球は、長野県内の鉄工所に現在でも保管されている。


生中継

1972年2月28日の突入作戦時にNHK・民放5社が犯人連行の瞬間まで中継しているが、このうち、NHK日本テレビTBSフジテレビの中継映像がVTRで残っている。地元局である長野放送はカラー中継に対応しない白黒映像の中継車を通じて犯人連行の瞬間を鮮明に中継。この事件を機にフジテレビは報道にも力を入れるようになった。また白黒カメラを暗視カメラとして活用するなど後のテレビ報道に少なからず影響を与えた。


治安

事件解決と山中に潜伏している恐れのある他のメンバー発見のために当時の長野県警の全警官のうち36%にあたる838名が山荘周辺に動員されていた。しかし事件が長期化することで後方治安について不安視されるようになったが、実際はその逆で犯罪件数、交通事故ともに減少傾向を示していた。というのも事件の様子が生中継で放送されており、それが異常な高視聴率を示していたことから在宅率が平時より高くなっていた。在宅率が高いということは自動車の絶対量が減り、空き巣も犯行を断念するから。また犯罪者もテレビ中継を見ていたことで犯罪を起こす気を起こさなかったという考察も見られる。


報道被害

事件後に保護された人質の女性は、マスコミによる過熱報道の対象となった。

外部と一切隔離された環境で入院していたはずが、警察の事情聴衆の様子が朝日新聞に次々とスクープされてしまった。これは朝日新聞がベッドの下に盗聴器を仕込んでいた為である。本件は朝日新聞側の必死のもみ消しにより、当時は表沙汰にはならなかった。

退院後には発言を歪曲して報道され、まるで犯人グループと心を通わせていたかのような印象を与えられ、世間からバッシングを受けることとなった。実際には監禁中は犯人グループから冷遇されており、真逆の扱いを受けていた。

これに参った女性はマスコミ不信となり、虚偽報道を否定する記者会見を開いた後、マスコミとの接触を断絶した。

マスゴミ偏向報道も参照。


浅間山荘のその後

事件から10年ほどは観光名所となり、観光バスの周遊コースにもなっていた。その後大半を取り壊してアートギャラリーとなった後中国の企業が買収した。

事件当時新毛沢東主義を掲げたセクトが籠城した現場を、その毛沢東が建国した中国の企業に資本主義のルールによって買い取られるという何とも皮肉な形となった。


参加メンバーとその後

坂口弘

連合赤軍中央委員会書記長で序列は三位。本事件の主犯格であったが、連合赤軍の総括に思うところがあったようで逮捕後は武力革命の必要性を疑問視しはじめた。

その為クアラルンプール事件で超法規的に釈放されるの拒否し、法廷で戦うとして留まった。

裁判の結果死刑判決を受けたが、まだ執行はされていない。

逃亡中、靴が破れた仲間に自分の靴を貸してやっていたため連行される際は降り積もった雪の上を裸足で歩いていた。

この男は連行の際、髪を鷲掴みにされ、鼻血を流してニタニタ笑っていた。連行の場面を一度は見たことがあるはず。

坂東國男

中央委員会序列五位。しかし委員長の森恒夫の独裁体制を副委員長の永田と共に強く支えた人物であり、ある意味では坂口以上に強い影響力があった。が、籠城中につまみ食いをして吉野から不満をぶつけられている。

クアラルンプール事件で超法規的措置により釈放され、日本赤軍に参加し政治的事件を繰り返す。

2001年に日本赤軍のリーダーの重信が解散宣言をしたが、それを受け入れず現在国際指名手配中。

なお、判決が下っているのに坂口の死刑が執行されないのは、彼の裁判が終了していないからである。

警察関係者は、坂東が逮捕され裁かれるまであさま山荘事件は終わらないと考えている。

尚、父親はこの事件に責任を感じ、実家で首を吊って自殺した。

吉野雅邦

中央委員会序列七位。一応幹部だが、末席であり立場はそれほど高くなかった。

妊娠中の妻を総括で死に追いやっており、そのことを非常に悔いている。

坂東がつまみ食いするのを見て坂口と坂東に不満をぶつけた。

裁判では連合赤軍以前の犯罪が重く見られる一方、連合赤軍においては幹部でありながら潜在的な総括の対象者であり、本事件では殆ど坂口と坂東の指示に従っていた従犯と判定され、無期懲役の判決を受け、現在服役中。

加藤倫教

三兄弟で連合赤軍に参加しており、彼は次男である。長男は総括でリンチにあい死亡している。総括の際、弟の元久と共に兄を殴らされた。

当時はまだ未成年であったため、少年法が適用されて実名は隠され「少年A」と報道された。

1983年2月に懲役13年の刑が確定。1987年1月仮釈放。

釈放後は実家の農業を継ぐかたわら、野生動物・自然環境保護の団体に所属している。

元連合赤軍メンバーとしてメディアにも出演している。


加藤元久

倫教の弟で、同様に少年法が適用されて当時は「少年B」と報道された。

彼も逮捕された時点で16歳の未成年であったため、保護処分だけですまされた。


本件を題材とした創作物

  • 映画『突入せよ!あさま山荘事件』

当初は「救出」というタイトルだったが、東映の会長の鶴の一声で「突入せよ〜」に決まった。

数多くの学生運動や新左翼のテロ事件に対する警備実施を指揮してきた佐々淳行氏は、自身が指揮を務めたこの事件の詳細を書籍化し、1996年に文藝春秋より『連合赤軍「あさま山荘」事件』の題で出版。その後1999年に『実戦「危機管理」連合赤軍「あさま山荘」事件』の題で文庫化され、この書籍を原作として2002年に『突入せよ!あさま山荘事件』のタイトルで映画化された(但し、映画的ケレン味を重視して事実とフィクションを交えた作りとなっている。長野県警関係者及び連合赤軍一味の名前を変えている他、映画オリジナルの人物が登場している)。

主演の役所広司が佐々淳行氏を演じた他、宇崎竜童伊武雅刀天海祐希といった豪華キャストを据えて撮影された。また中盤に、佐々淳行氏本人と、佐々氏と共にあさま山荘警備に出動した方々がカメオ出演している。

興行成績は芳しくなかったが(監督を務めた原田眞人曰く「タイトルを「救出せよ!」にしとけばよかった」とのこと)、下積み時代の上地雄輔や無名時代の荒川良々等も出演しており、そこに注目してみるのも面白い。

鉄球作戦と警視庁機動隊員の殉職、強行突入を描いた物語終盤はシリアスな場面が続くが、序盤から中盤にかけては長野県警に振り回される警視庁幕僚団のコメディなシーンが多い。


  • 映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』

『突入せよ!あさま山荘事件』が警察側の視点からで描いているのに対し、事件を引き起こした連合赤軍側からの視点で、発端である山岳ベースでの凄惨なリンチ事件からあさま山荘事件に至るまでの過程を赤軍当事者達の証言に基づいてドキュメンタリータッチで描いた作品。

監督を務めた若松孝二は大の警察嫌いであり、『突入せよ!あさま山荘事件』を鑑賞した際、「権力側の視点からしか描かれていない」と不満を感じたことからカンパや自費を投じて制作し(若松は自宅を抵当に入れた他、終盤のあさま山荘での攻防戦は実際に若松自身の別宅をロケセットとして破壊しながら撮影された)、2007年に単館上映の後、2008年に全国公開された。

第20回東京国際映画祭にて「日本映画・ある視点 作品賞」を、第63回毎日映画コンクールで監督賞、第32回山路ふみ子文化賞、第18回日本映画評論家大賞で作品賞を受賞するなど国内で多くの賞を受賞。

さらに2008年2月に開催された、世界三大映画祭の一つであるベルリン国際映画祭において最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)と国際芸術映画評論連盟賞(CICAE賞)をダブル受賞するという快挙を成し遂げた。

終盤、同志殺害から籠城に至った経緯を加藤元久が「勇気が無かった」と吐き捨てる場面があるが、加藤倫教から「腹が立った」と批判された。



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