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西太后の編集履歴

2011-12-31 11:57:45 バージョン

西太后

せいたいごう

清の咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。

については、民間に多くの逸話が伝えられている。たとえば、


西太后は、下級官吏の貧しい家に生まれ育った。
最初、円明園の宮女となったが、たまたま通りかかった咸豊帝に声と容姿が美しいことからみそめられ妃に昇格した。

いわゆる『葉赫那拉の呪い』の伝説のせいで皇后になれなかった。

ライバルの麗妃の手足を切断して甕の中で飼った。
などが有名である。しかし現在では上に挙げたどれもが根拠のない流説であると判明している。(加藤徹『西太后』中公新書2005年などを参照のこと)

ライバルの麗妃の手足を切断したというエピソードは映画『火焼円明園』(邦題『西太后』)でも描かれているが、これは完全なフィクションで、呂后や則天武后のイメージと混同されているにすぎない。

実際の麗妃は咸豊帝の唯一の娘栄安固倫公主を生み、咸豊帝の没後も後宮で静かな余生を送っている。同治、光緒朝には麗皇貴妃、麗皇貴太妃に加封され、1890年に54歳で死去した。

荘静皇貴妃と諡号され、東陵にある咸豊帝の定陵の妃園寝(側室達の墓)に葬られている。また、西太后は嫉妬深いというイメージとは反対に、咸豊帝の他の妃たちにも加封している。

元のライバル達は咸豊帝の死後も宮廷で生活し続け、別段危害を加えられなかったのみならず、折々の祭典などでは加封や下賜品をたまわっていた。

西太后は粛順や珍妃など自分と敵対する者に対しては徹底的に排除する一方、敵対しない者に対しては寛大でむしろ気前が良いという一面もあった。

なお、近年の研究で西太后に対する再評価がされ、満漢全席による中国料理の基礎の確立や列強諸国に支配されていれば失っていたかもしれなかった京劇の庇護など中国の文化や建築物を守っただけでは無く、時に強権的になってまで人臣を掌握し、中国の国力を他国に知らしめる手腕を発揮した事が判明。「悪女」どころか本当は「優れた統治者」であったという評価も成され始めている。

優れた統治者ではあったけれども改革が急するということは理解できなかった

また、側近を務めた事がある女性が晩年に著した手記には、西太后がどれだけ孤独で悲壮な立場に立たされていたか、を克明に記した文節がある要出典]。