承和12年6月25日(845年8月1日)~延喜3年2月25日(903年3月26日)。
幼少の頃から詩歌の才に恵まれ、文人として出世。讃岐守にもなり、宮中での紛争を収束させた。道真は遣唐大使に任命されたが、彼の進言で遣唐使を廃止させた。
宇多天皇の信任を得て右大臣にまで昇ったが、藤原氏の反感を買い、左大臣・藤原時平が醍醐天皇に天皇を譲位させようとしていると讒言し、道真は大宰府に権師として左遷。そのまま京に帰ることなく、当地で没した。
その後、京で天変地異が相次ぎ、時平が若くして急死し、宮殿に落雷が起こり、人々は道真が怨霊となって祟りを成したと恐れ、雷神「天神様」として祀り、その後は学問の神として信仰された。
さらに『将門記』には、道真が八幡神に取り次いで平将門を新皇にさせたという。
もっとも、大宰府にいた本人は左遷されたことや藤原氏に対して、恨み辛みを述べてはいなかったという。
百人一首の24番に
「此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に」
が選ばれている。