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三式戦闘機の編集履歴

2012-05-04 09:38:06 バージョン

三式戦闘機

さんしきせんとうき

大東亜戦争時の昭和18年に大日本帝国陸軍に正式採用された液冷エンジンの戦闘機。日本では珍しい液冷エンジンを搭載している。これは精巧・高性能で知られたドイツのダイムラー・ベンツDB-601エンジンのライセンス生産で、高性能が期待されていた。

概要

昭和13年に川崎飛行機ダイムラーべンツ社のDB601Aエンジンのライセンス権を取得し『ハ40』として生産を開始した。


陸軍は昭和15年に、このハ40を使用した戦闘機の開発を川崎飛行機に指示。

昭和16年に試作機キ61として初飛行、そして昭和18年に陸軍に正式採用された。


デビューは1943年(昭和17年)のニューギニア戦線だが、

精巧で知られた液冷エンジン「ハ40」は南方の高温多湿といった過酷な環境、

整備士の液冷エンジンに対する未熟などから多くの問題が生じてしまい、

稼働率の悪化を起こす。


戦争末期には244戦隊(調布基地所属)などの部隊で本土防空に従事した。


隊員たちの通称は『ロクイチ』等。

連合軍のコードネームは『トニー(Tony)』。


ガラスの心臓

この戦闘機が搭載するエンジンはドイツ製液冷エンジンDB601A(のコピー)である。

これはドイツMe109E

イタリアではMC202のような戦闘機に搭載されている。


ただし、このエンジンは当時の日本の工場にとっては、

あまりにも精緻で、あまりにも精密すぎた。

上記では整備上の問題について触れているが、生産でも問題が大きかったのである。


精密すぎる設計がマネできなかった、というのは言うまでもない。

しかも材料は貴重な種類の金属を多用(特にニッケル)しており、その面でも原型に後れを取る原因になった。

そして戦況が悪化の一途をたどり、工場の熟練工まで兵士にとられる状況では、

問題はもはや「部品の精度」どころの話ではなかった。


前述の「整備兵の未熟」という問題は、徐々に整備兵が慣れていくに従って解決している。

(フィリピン戦の時に内地から送った機体で、故障などで途中落伍したのは13%程度という)

ただし、部品にまつわるエンジン不調は如何ともしがたく、

落ち続ける部品の質に足を引っ張られ続けたのは、他の日本戦闘機と同様である。


フィリピン戦と日本戦闘機

三式戦闘機の落伍が13%だったのは前述のとおり。

出典の『世界の傑作機 No.65 陸軍一式戦闘機「隼」』の45ページによると、

「(落伍機は)3式戦ですら13%なのに、4式戦は最悪の20%。ところが1式戦はわずか4%にすぎない。」

とある。


特徴

一番の「爆弾」だが、

最大の特徴は液冷エンジンによる高性能・空気抵抗の少なさである。

本機はこのスマートな容姿のおかげで『和製メッサー』なる称号を頂戴している。


また、前線の部隊では『突っ込みがきく』と評価もされており、

日本戦闘機の典型的な弱点である「急降下性能」が優れている事がわかる。

P-38が『急降下で振り切られた』例すらあったという)


三式戦闘機は軽戦闘機・重戦闘機の区分にとらわれない、新しい戦闘機として計画された。

このため両方の特徴を併せ持っている。

(軽戦:ドッグファイト型 重戦:一撃離脱型)

しかし、この特徴は連合軍戦闘機と比べても似通ったものとなり、

空戦では苦戦しやすかった。


五式戦闘機

エンジンが精密すぎて生産が思うように進まず、

工場には『首なし(エンジンなし)機体』(最大230機分)が列をなした。


これに対する対策が、エンジン換装を含む五式戦闘機への改造である。

最大の相違点はエンジンを「ハ-112Ⅱ」に換装している。

このエンジンは元々百式司令部偵察機三型の為に作られており、

こちらは機体の開発が間に合わずに余っていたものである。


五式戦闘機はテストで良好な成績を示し、すぐさま既存の首なし機体への適用が命じられた。

しかし、エンジンの生産は空襲やら地震やらの事情で進まず、

さらに生産の要点は四式戦闘機から変わらなかったので、改修機は少なかった。

登場は戦争末期だったので、愛称も付けられなかった。



武装

武装はアメリカの12.7mm機関銃M2のコピーで、これを機首と主翼に4門装備する。(一型乙)

しかし、最初の生産型では機銃不足になったために7.7㎜機銃を機首に装備する。(一型甲)

次の型では、これまたドイツ製の「マウザー砲(MG151/20)」を搭載している。(一型丙)

この機銃は火力や命中精度に優れ、操縦者には評判が良かったという。

その次は一型丁で、これは国産の20㎜機銃「ホ5」を機首に搭載する。


さらに一型丁の大改修型である二型(武装は一型丁と同じでエンジンを「ハ-40」の改良型「ハ-140」に換装)が登場したが、後に小改良を加え二型改となった(胴体を二型のものを使用し主翼を一型丁のものに換装。)。


なお、少数の二型改は機体を改良して水滴形風防(後方視界が利くのが特徴)を採用した。(通常のタイプは後方視界に難があったファストバック式風防であった)


現存機

唯一の現存機(二型改)が鹿児島県南九州市(旧知覧町)の知覧特攻平和会館にて展示保存されている。(日本航空協会の所有で貸与扱いで展示。)


元々、旧日本陸軍航空審査部所属機で終戦当時多摩飛行場(別名・福生【ふっさ】飛行場。後のアメリカ空軍横田基地)に残っていたところをアメリカ軍に接収されてしばらくの間横田基地に展示され、1953年に日本航空協会に譲渡された物である。

その後、各地で展示されたが展示状態が悪くボロボロになった。そして1962年アメリカ軍に引き渡され立川基地にて大規模なレストアが行われ1963年に返還された。その後は航空自衛隊岐阜基地にて管理されるも再び全国各地で展示され、1986年ようやく知覧特攻平和会館での展示に落ちついた。


なお、三式戦闘機は旧日本陸軍知覧飛行場から50機が特攻機として出撃しており、一式戦闘機四式戦闘機同様に知覧と縁の深い飛行機でもある。


関連イラスト


成層圏の燕 キ61-II型後期生産機三式戦

別名・表記ゆれ

飛燕


関連タグ

五式戦闘機

外部リンク

陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たち


インターネット航空雑誌ヒコーキ雲

(サイト内に現存機の戦後の画像が掲載。)

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