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Atariの編集履歴

2012-08-23 00:58:04 バージョン

Atari

あたり

アメリカ合衆国のビデオゲーム会社で、ビデオゲームを作るためだけに創立された会社としては世界初である。ノーラン・ブッシュネルが1972年に創業した。

概説

アーケードゲームと家庭用ゲームを軸に、パソコン・ピンボール・電子ゲームも作ったことがある。

現在もアタリという会社はあり、インフォグラムグループの本社はパリ、アタリブランド部門の本社はニューヨークにある。日本支社にはアタリジャパンがあるが、これらは当初のアタリとは異なる会社である。

アタリマーク

社紋はATARIのAと富士山を図案化したもので、別名フジマークとも呼ばれる。零細企業だった1973年春頃に作られたため、生まれたプロセスや初登場日ははっきりしていない。マークの下には関連企業の名前、それがない場合はキャッチコピーの"Innovative Leisure"(イノベイティブ・レジャー:新鮮な遊び)が入る。1991年6月には創業25周年を記念し、社員で人マーク(人文字のようなもの)が作られた。スマートなデザインで親しまれたため、インフォグラム傘下となった今でも使われているが、細部は微妙に変えられている。

社名の由来

囲碁の日本棋院初段を持つブッシュネルが囲碁用語「アタリ」から社名を取った。当初は"Syzygy"にしようとしたが、他の会社が申請済で使えなかったため(Syzygyについてはコンピュータースペース参照)、ブッシュネルが好きな囲碁用語「センテ」「ハネ」「アタリ」の中から「アタリ」を選んだ。「アタリ」を選んだ理由には「どんどん敵を包囲し、自陣を広げてしまう」と言う狙いもあったと言われている。

沿革

前史

ノーラン・ブッシュネルは、ビデオゲームのアーケードゲーム化を目指し、「コンピュータースペース」を発売したが、失敗した。だが、このゲームの発売元であるナッチング・アソシエーツの社長からの情報を元に、世界初の家庭用ゲーム機「オデッセイ」の発売前展示を見たブッシュネルは感銘を受け、独立して新会社設立を決心した。

「コンピュータースペース」を発売するため、ブッシュネルと共にアンペックスからナッチングまで一緒に転職もしてくれた、ラリー・ブライアンとテッド・ダブニーを誘い、3人で250ドルずつ出す計画だったが、ブライアンは創業前に離脱してしまった。そこでダブニーと2人でカリフォルニア州サンタクララの小さなガレージカンパニーの1407号室を借り、1972年6月27日に創業した。ガレージの中を衝立で仕切り、手前は事務室、奥は工作室とした。

創業時

目的はとりあえず、大手アーケード会社にビデオゲームを売り込むことだったが、当初は「コンピュータースペース」の権利料が僅かに入って来るだけだった。そこで、ピンボール会社からピンボールを買い、近所のスタンフォード大学の近くでディストリビューター(アーケードゲームを買って設置し、金を回収する業務)を始めた所、ブッシュネルが遊園地のゲームコーナーでアルバイトをしていた経験が役立ったのか、結構儲かり、アタリがすぐ潰れる心配はなくなった。

社員面では、まず3人目の社員として、ブッシュネルの娘のベビーシッターだったシンシア・ビランヌーバを、電話番兼受付嬢として雇った。次に、ブッシュネルが以前勤めていたテープレコーダー会社、アンペックス社の後輩、アラン・アルコーン(Allan Alcorn、通称:アル)を「副社長として、技術者として雇ってやる」と誘った。アンペックスではリストラが始まっていたので、アルコーンはブッシュネルに同意してアタリに引き抜かれ、4人目の社員となった。このアルコーンに「Odessey」と似たゲーム『ポン』を作らせた所、大人気となり、ここからアタリおよびアーケードビデオゲームの大躍進が始まった。

「ポン」製造開始後

当初は時間と金を作っておく→電気屋等で資材を沢山買い込む→基板など電子部品を作る→空の筐体を置いて部品をあちこち付ける→売る→売り切ったら売れた金でまた資材を買うと言う、全くの自転車操業だった。これでは毎日数台、どんなに頑張っても10台しか作れなかった。だが『ポン』は500ドルで作り、1,200ドル即現金払いが飛ぶように売れた。この頃アメリカで最も人気のあったピンボールは、一日約100ドルを稼いでいたが、『ポン』は200ドル以上稼いだ為、つまり3日で製造コスト、1週間で販売コストが回収できた。当時のアーケード業界は日米共にまだ胡散臭いものと思われ、銀行から融資してもらえるゲーム会社は大手だけだったが、アタリはこのような右肩上がりで、軍資金をどんどん貯めていった。

アタリは隣の部屋も借りる→潰れたローラースケート場を借りて工場に改造→当時アメリカで最新設備の工場と、9ヶ月間に3回も移転、生産ラインの従業員は職安で片っ端から声をかけ、最終的には200人で毎日100台の生産能力を確保した。それでも人手不足だったため、アタリに入って来た者なら誰でも節操なくスカウトした程だった。後にスプライト機能等を生み出す技術者スティーブ・ブリストーは、ハンダ付けや現金回収時のボディガードを、妻に手伝ってもらっていた。

従業員は低賃金で一日12時間、忙しい時は20時間働き、疲れた時は作っているゲームで遊んだが、何故か家に帰らない者が多かった。彼らの多数はヒッピーだったため、工場は常にマリファナの臭いとロックの大音響で満たされた上、金に困ったヒッピーが、テレビや部品を勝手に質屋に売り払うこともあった。だがゲームが売れる度に全員にボーナスが頻繁に出るなど、羽振りは大変良かった。資本金500ドルで始まったアタリは翌年、いとも簡単に320万ドル以上の売り上げを記録し、この頃の売り上げと資本金の急成長ぶりは、アメリカの企業として未だ破られていない記録である。「ポン」以外のゲームでは、1973年に『ポンダブルス』、ボールとラケットタイプ以外のゲームでは、『スペースレース』を発売している。

ただ、前述のダブニーはこの急成長に付いて行けないと言い出したので、退職条件として、これまでの直営ロケ(会社が直接機械を設置する事)の権利をダブニーが、株券をブッシュネルが全て持つ事にした。こうして創立後約1年で、アタリは名実共にブッシュネルの会社となった。

1973年には、効率良い販売のため、子会社のキーゲームズ(Kee Games)を立ち上げたが、約1年半で早々と吸収合併、キーゲームズ社長のキーナンをアタリの社長に据え、ブッシュネルは会長になった。以後、キーナンはアルコーンと共に、ブッシュネルの腹心の片腕として活躍することになる。この他に、日本支社としてアタリジャパン(初代)を作ったが、これについては左記リンクを参照。

1974年初頭には、40人目の社員として、スティーブ・ジョブズが技術者として入社している。同じく1974年には、初の家庭用ゲーム機として、『ポン』の家庭用版『ホーム・ポン』、1976年には『ポン』に続く大ヒット作として、ジョブズがスティーブ・ウォズニアックを関わらせたことでも知られる、『ブレイクアウト』(いわゆるブロックくずし)を発表した。

Atari2600とワーナーの悲劇

家庭用ゲーム部門としてはAtari 2600(当初はVCSと呼ばれていた)の構想を立ち上げたが、儲かっている企業とは言え、多くの金がうごめく為、資金のやりくりが大変で、この頃は一歩間違えれば倒産し兼ねない危機を孕んでいた。ブッシュネルは株式公開も考えたが、結局大企業への売却で資金を安定させる方法を思いついた。ユニバーサル・スタジオで有名になるユニバーサルや、ディズニーに声をかけたが、反応が無かった。

そこで、映画会社として有名なワーナー・コミュニケーションズ(アタリを傘下にしていた時代に、タイム・ワーナーとなる)のスティーブン・ロス会長は、遊園地でアタリのゲームを見たのがきっかけでアタリと接触、ロスが叩き上げの事業家でブッシュネルと意気投合したこともあり、1976年10月に2,800万ドルでアタリを買収した(うち1,300万ドルはブッシュネルの懐に入り、億万長者となる)。アタリ重役陣の役職はそのままとされた。だが、ブッシュネルは後に「ワーナーへの売却は失敗だった。あと2週間あれば、資金が調達できた」と語っている。サイトのあちこちに「会社に未練が無かったのか」「金が欲しかったのか」「ワーナーに売却して即引退」と言う説明がよく見られるが、これはもちろん誤りである。

1976年11月にはフリッパーピンボールにも参入しているが、これについてはピンボールを参照。

Atari 2600は1977年に発売できたが、直後からサードパーティーや競合他社の家庭用ゲーム機が撤退する等、アクシデントが相次ぎ、なかなか売れなかった。そこで、ワーナーは繊維業界の営業畑で実績のあったレイモンド・カサールを、家庭用部門のトップとして引き抜いたが、このカサールこそが、ブッシュネルとアタリにとって疫病神とも言えた、Atari 2600とワーナーの動きに火を注いでしまった。

ブッシュネルやアルコーン達は、自分たちを「アタリアン」(Atarian)と呼び、自由な格好・時間・雰囲気で、楽しむ様に経営や開発を行なっていた。そして新作ゲームも必ずテストプレイに加わり、意見を述べていた。ワーナー売却以前に大切な会議をする時は、ゲームで儲けたブッシュネルの豪邸で、何とジャグジー(泡風呂)の中でやっていた程である。だが、カサールを始めとするワーナーの重役陣はネクタイを締め、目的と言えば事業拡張と売り上げだけ、それもアーケードでなくAtari 2600の売れ行きだけを目標としており、もちろんテストプレイにも加わらなかった。

だが、Atari 2600はまだ売れないので、ブッシュネルは前述のフリッパーと、自ら構想したAtari 2600の事業縮小・中止を提案した。だが、ワーナー側はロスも含めて猛反発、交渉は決裂した。そして、ブッシュネルは1978年12月にアタリアンだけで重役会議をやった所、話を聞いたワーナーが激怒する。ブッシュネルは一応、YesかNoかの答えを迫られた余裕もあったが、事実上ワーナーがブッシュネルを一方的に解任した。だが、ブッシュネルは小手先も少々仕込んでいた。ワーナーとの契約時、「退職後5年間、アタリと競合する仕事をしてはいけない」等の他に「自分から辞めたら退職金をもらえないが、解任されたら受け取れる」と言う項目があり、ワーナーが解任する様仕向けたのだった。こうしてブッシュネルは、自分が作ったアタリを6年も経たない内に追い出され、二度と戻ることは無かった。

カサール時代

キーナンが会長、カサールが社長に繰り上げ昇格したが、キーナンも程なく1979年10月に退職(その後もブッシュネルと仕事の付き合いがあった)、カサールが会長となった。これまで自由だったアタリは厳しい社風に一変、スーツや入館用ICカードが義務付けられる。異なる部門は出入りが制限され、顔も名前も分かりにくくなった。これは既にワーナー売却前、ある会社のゲームとよく似たゲームが別会社から発売され、訴訟になったことが理由の一つである。開発部門の情報隠蔽とも言える。

アタリアン達もどんどん解雇か、依願退職となった(もちろん、そんな環境できちんと在籍し続け、優れたアーケードゲームを開発し続けたアタリアンもいる)。退職した有能なアタリアン達の中には、Atari 2600用のサードパーティー会社を立ち上げる者もいた。Atari 2600のグラフィックチップを開発したJay Minerはこの頃に退職し、Atari 2600用のジョイスティックを開発するためとの名目でAmiga社を設立、新型ハードの開発に乗り出している。アルコーンも自分の電子ゲーム企画を没にされたため、1981年に退職している(その後、後輩とも言えるジョブズの作った、アップルコンピュータに勤めた時もある)。

カサールはアタリアン達の企画したゲームをどんどん没にしただけでなく、アーケード部門にも予算節減など様々な妨害を加え始めた。この頃からアタリショックまでのアーケード作品は、フライヤー(チラシ)が白黒になる、毎年の新作数が半分強に減る等からも妨害があった事が分かる。しかしそれでも、アタリの売り上げは差別されたアーケード部門が稼ぎ、優遇された家庭用部門はさっぱりだった。

カサールの唯一の功績は、日本の『スペースインベーダー』が売れていたため、Atari 2600への移植を提案したことである。これで1980年にAtari 2600はやっと売れ始めた。逆に、『パックマン』はカサールに無許可で移植が決定したため、カサールを激怒させたが、結局これが2発目のキラーソフトとなった。ここに来てやっとAtari 2600の人気は頂点に達し、ワーナーグループ全体の売り上げの3分の1をアタリが占めることになった。

だがその後、「人気タイトルならAtari 2600でゲームにすればなんでも売れる」と誤解され、レベルの低いソフトが粗製濫造、特にアタリが自ら作った、人気映画の『E.T.』ゲーム化が大失敗する(ただし、「当時はとっつき難かったが、妙に変わっていて面白いゲームだ」と支持する声も現在まで一部に聞かれる)。これで深刻なユーザー離れを起こしたアタリショックが発生、その結果、カサールもやっと1983年7月に解任された。だが、カサールはこれに飽き足らず、解任直前にはインサイダー取引の疑いまで起こしている。

カサールの後任であるジェームズ・モーガンの初仕事は社内の無駄減らしで、次に『E.T.』のカセットの大量処分、そして社員のリストラであった。このリストラ直前がアタリの最大社員数で、1972年にたった2人で始めた会社が、1983年には約9,800人に膨れ上がっていた。リストラの結果、経営状況はある程度改善し、赤字の垂れ流し状態であったアタリの家庭用ゲーム機部門にも復調の兆しが見え始めたが、1984年にワーナー本社が豪メディア王ルパード・マードックによる買収攻勢に遭い、アタリの経営改善にかまっている余裕が無くなってしまった。ワーナーは家庭用ゲーム機部門と、アップルコンピュータやコモドールなどの他社に押され気味であったパソコン部門の切り離しを決定。努力も空しく、1985年にアタリは下記の2社に分割される。

アタリゲームズ(アーケードゲーム部門)

業務用ゲーム部門は、アタリゲームズ(Atari Games)と名前を変えた。ブッシュネルが創業・届け出た会社としての血筋は、こちらが受け継いでいる。『ガントレット』、『マーブルマッドネス』などの秀作ゲームを順調にリリースした。日本へのライセンスは1990年まではナムコ、その後はコナミや、SNKからも行われている。

そして、アタリゲームズ製ゲームの家庭用ゲーム移植を目指し、子会社「テンゲン」も設立されたが、セキュリティに関する著作権違反で任天堂から訴えられ、事実上の敗訴をしている。アタリショックから立ち直ろうとしたアタリゲームズは、これで再度傾いた。詳細は「テンゲン」を参照。

その後、ワーナーが週刊誌で有名なタイム社に買収され、タイムワーナー社となったのに伴い、タイムワーナー・インタラクティブ(通称TWI)に改名、一時的にアタリの名が消えた。なお、この時社長を勤めていたダン・ヴァン・エルデレンは、「ポン」量産開始直後に入社した、叩き上げである。

タイムワーナーは家庭用(アタリコープ)に続き、アーケード部門もタイムワーナーからの切り離しを決定、買収先には日本のゲーム会社の名も挙がったが、1996年3月にピンボール大手のウィリアムス・インダストリーズ(WMS)に買収された。アタリ(ゲームズ)の名はWMS側で復活したものの、今度は7ヶ月後にWMSから分離したミッドウェイゲームズにアタリブランドは引き継がれる。そして2000年2月にミッドウェイはアタリブランドを使用停止、アタリブランドのアーケード新作は作られなくなった(これらの詳細はウィリアムスとミッドウェイゲームズを参照)。この合併の成り行き上、ミッドウェイゲームズは今でもアタリゲームズのゲームの権利を保有しており、またミッドウェイのスロットマシンには『ポン』等、アタリのゲーム名を使っているものがある。

2009年、破産したミッドウェイをワーナーが買収。アタリゲームズの権利は再びワーナーの物となった。

アタリコープ(家庭用ゲーム・パソコン部門)

家庭用ゲームやパソコン部門は新会社で分割、コモドールを追放されたジャック・トラミエルに売却され、アタリコープ(Atari Corp)となった。

分割前の1979年には、8ビットのパーソナルコンピュータAtari 400/800を発売し、家庭用パソコン市場に参入していた。その後継機として、コモドールから引き抜かれた社員が中心となって開発した16ビットパソコンAtari STを発売(1985年)。Amiga社を買収したコモドールの16ビットパソコンで、元アタリアンのJay Minerが開発したAmigaと熾烈なシェア争いを演じる。Atari STはMIDIを標準装備していることからミュージシャンに愛用者が多かった。その後、アタリコープは、1989年にポータブルゲーム機Atari Lynx、1993年には32ビットゲーム機Atari Jaguarを発売するが、いずれも最終的には失敗。これがアタリ最後のハードウェアとなった。

1996年にハードディスクメーカーのJTS(JTS Corporation)に吸収合併されたが、その後も資産売却や買収が短期間で連続、結局現在はフランスに本社を置くインフォグラム傘下のアタリ(2代目)となった。詳細は「アタリジャパン」を参照。

結局一つの会社だったアタリのゲーム資産は、ミッドウェイとインフォグラムに散らばっている。

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