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マルクス・アウレリウスの編集履歴

2012-09-20 10:42:04 バージョン

マルクス・アウレリウス

まるくすあうれりうす

マルクス・アウレリウス・アントニウス 第16代ローマ元首アントニウスピウス家2代当主 『五賢帝』の最期の元首 異名『哲人皇帝』 世没 122 - 180

CAESAR MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS

在位19年
161年 - 169年(ウェルス帝と共同)
169年 - 177年(単独統治)
177年 - 181年(コンモドゥス帝と共同)
本名マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルス
ラテン語Marcus Annius Catilius Severus
元首名カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス
ラテン語Caesar Marcus Aurelius Antoninus Augustus
出生121年4月26日:ローマ
崩御180年3月17日(満58歳没):ウィンドボナ、もしくはシルミウム
埋葬ハドリアヌス廟サンタンジェロ城
継承ルキウス・アウレリウス・コンモドゥスコンモドォス
配偶者小ファウスティナ
子女コンモドゥス
ルキッラ
ファディラ
小コルニフィキア
王家アントニヌス家
王朝五賢帝
父親マルクス・アンニウス・ウェルス3世
母親ドミティア・ルキッラ

『哲人皇帝』の概要

第16代ローマ元首アントニウス家2代当主、『五賢帝』の最期のローマ元首といわれる。

少年時代のマルクス(イメージ)


御曹司で貴公子マルクス

ハドリアヌスの妻の縁戚、本名はマルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルスという。ローマ上流階級の生まれで彼は美少年美男で有名な御曹司貴公子であった。 ハドリアヌスとのマルクスとの関係はハドリアヌスの妻の縁戚として始まったようで、ハドリアヌスは一目置いていた少年であったようだ、そこらへんの関係はテルマエ・ロマエなどを参考にするといいと思われる。


秀才マルクス

マルクスは子供のころからまじめな教養をつけていたのは年の割には大人びた性格をしていたのは確かなようで、確かに哲学者に憧れていた節はあるようだ。元首ハドリアヌスはマルクスを6歳で騎兵階級エクティス)に命じたり、10代のころには一個兵団の指揮官に命じたりするほどのあからさまにハドリアヌスはひいきをした。



元首ハドリア熱い視線と支援を受けながらマルクスは



ストア哲学などの学識に長け良く国を治めたが、アントニウス元首と違い、治世は悲劇が多かった。 知的な伝説からヨーロッパ天才的名君の典型となる ヨーロッパの君主は一度は憧れる存在となった


髪の色

髪の色は息子コンモドゥスの髪が金髪だったのでもしかすると遺伝的にマルクスの色も金髪だった可能性がある。ハドリアヌスはそこに惚れたんだろうとハドリアヌス時代には『金髪の美少年』だったと思われる。


パルティアとの戦争に勝利を収めたが、その軍団より疫病がはやりローマ人が混乱した。蛮族への予防戦争として始めたマルコマンニ人、クアディ人、サルマティア人などへの遠征(マルコマンニ戦争)は長期戦となり老齢をおして自らも前線で指揮をとるも陣中で没した。


『哲人皇帝』 映画『グラディエーター』の初番で出ている。

関連

テルマエ・ロマエ


表記

マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルス 本名。


マルクス・アウレリウス・アントニヌス

マルクス・アウレリウス・アントニウス 少し違う

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