IMPERATOR CAESAR MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS
GERMANICVS
SARMATICVS
PONTIEX MAXIMVS
TRIBVNICIA POTESTASⅩⅩⅩ
IMPERTOR Ⅹ
CONSVI Ⅲ
PATER PATRIAE
在位 | 19年 |
161年 - 169年(ウェルス帝と共同) | |
169年 - 177年(単独統治) | |
177年 - 181年(コンモドゥス帝と共同) | |
本名 | マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルス |
ラテン語 | MARCVS ANNIVS CATILIVS SEVERVS |
元首名 | インペラートル・カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス |
ラテン語 | IMPERATOR CAESAR MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS |
出生 | 121年4月26日:ローマ |
崩御 | 180年3月17日(満58歳没):ウィンドボナ、もしくはシルミウム |
埋葬 | ハドリアヌス廟(サンタンジェロ城) |
継承 | ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス(コンモドォス) |
配偶者 | 小ファウスティナ |
子女 | コンモドゥス |
ルキッラ | |
ファディラ | |
小コルニフィキア | |
王家 | アントニヌス家 |
王朝 | 五賢帝朝 |
父親 | マルクス・アンニウス・ウェルス3世 |
母親 | ドミティア・ルキッラ |
『哲人皇帝』の概要
第16代ローマ元首アントニウス家2代当主、『五賢帝』の最期のローマ元首といわれる。当時のローマ人それも皇帝の肉声(記述)が今も残る唯一の人物である。(ローマ人の肉声が残るのはユリウス・カエサルとマルクス・アウレリウスだけだと言われる。)
御曹司で貴公子マルクス
少年時代のマルクス(イメージ)
ハドリアヌスの妻の縁戚、本名はマルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルスという。ローマ上流階級の生まれで彼は美少年・美男で有名な御曹司・貴公子であった。 ハドリアヌスとのマルクスとの関係はハドリアヌスの妻の縁戚として始まったようで、ハドリアヌスは一目置いていた少年であったようだ、そこらへんの関係はテルマエ・ロマエなどを参考にするといいと思われる。
髪の色
髪の色は息子コンモドゥスの髪が金髪だったのでもしかすると遺伝的にマルクスの色も金髪だった可能性がある。ハドリアヌスはそこに惚れたんだろうとハドリアヌス時代には『金髪の美少年』だったと思われる。
秀才マルクス
マルクスは子供のころからまじめな教養をつけていたのは年の割には大人びた性格をしていたのは確かなようで、確かに哲学者に憧れていた節はあるようだ。元首ハドリアヌスはマルクスを6歳で騎兵階級(エクティス)に命じたり、10代のころには一個兵団の指揮官に命じたりするほどのあからさまにハドリアヌスはひいきをした。
10代半ばで後継者
マルクス青年(イメージ)
ハドリアヌスの治世も晩年に入ったころマルクスも15歳を過ぎてで成人した、このころ子供のいないハドリアヌスは後継者として期待していたアエリウス・カエサルが結核で急死した。このころ自身も不治の病にかかっていたハドリアヌスの後継者選別は失敗し再び後継者を指名しなくてはならなくなった。
当初ハドリアヌスはマルクス青年を第一後継者と見てはいたが16歳とあまりに若いことのリスクを考慮し内定を見送った、次にハドリアの副官職の執政アントニヌスに目をつけて彼を後継者とした。 ハドリアヌスはアントニウスを養子にしてすぐに自身も病死した。
元首アントニヌスの治世
アントニヌスはマルクス青年と故アエリウス・カエサルの遺児ルキウス・ウェルスの後見人としてローマ元首に即位した。しかし元首アントニヌスの治世はたぶんハドリアヌスが予想を大きく裏切りなんと23年も統治をしたのである。ハドリアヌスはたぶんマルクスが20代後半ぐらいでアントニヌスが寿命がきて元首に即位すると算段していたようだが・・。
このころのマルクスとルキウスは目立った活躍はしていない。
40歳で即位
161年に元首アントニヌス・ピウスが老衰で崩御し、マルクス・アウレリウス・アントニヌスとしてローマ元首に即位した。 マルクスこの時40歳であった。老年に差し掛かかる年頃である・・。
戦乱の再開
当初、マルクスの治世は先代アントニヌスと同じく平和な統治ができるものだと思われていたようだがまったく裏切られた。
まず即位してすぐにローマ東部のパルティア王国が大規模な侵略を開始した。同時にガリア地方のマルコマン二族(サルマタイ人)が中心となりローマへの反逆が開始された。
元首マルクスは2つの軍事行動にに対処するためにルキウス・ウェルスをおなじローマ元首とした。ここに史上初の共同元首が誕生した。
まずマルクスたちはパルティア王国の戦争に対処をした。しかし161年から始まった戦乱が思った以上に長期化し、マルクスとルキウスのローマ帝国軍の前線指揮も長引いた。
パルティア戦争から5年後にローマ帝国軍はなんとかパルティアを沈黙させることに成功した。165年の終結まで5年も月日ががれていた、その間マルクスとルキウスは前線から離れることができなかったようだ。そしてガリア地方の戦乱もまだ未収集だった・・。
凱旋帰国~大疫病
元首マルクスとルキウスの前線指揮が功を奏しパルティアとの戦争に勝利を収めたので、軍団とともに凱旋した、しかしその直後勝利をもたらした軍団より持ち帰られた大疫病がローマ全土はやってしまう事態となった。この疫病により弟の元首ルキウス・ウェルスが病に倒れ亡くなるという事件が発生した。マルクスはその後単独でローマ帝国を統治を続行した。
ガリア戦乱
165年に元首マルクスは次いで161年から始まっていた属州ガリア地方のドナウ川方面よりマルコマン二(サルマタイ人)を中心とした20部族連合軍のに対処を開始した。
しかしこの20部族連合軍は当時最強戦力だったローマ帝国軍をもってしても容易に打破できなかった。165年からマルクスの10年以上の最前線指揮もむなしく終息する気配がなかった。
息子登場
172年、54歳になっていた元首マルクスは当時11歳になった息子コンモドゥスをガリア戦乱の陣営に参加させた。この時にコンモドゥスを共同の元首として指名したと言われている。マルクス親子は以降8年ガリア戦争の前線指揮をした。この時マルクスは不治の病をわずらっていたという。
マルクス崩御
180年3月17日、不治の病がとうとうマルクスの命を奪った。マルクスは死の直前まで前線で指揮をしていたとされ、本営で息を引き取ったとされる。
享年59歳
父の崩御後すぐ、そばにいた息子コンモドゥスがローマ元首に即位した。
上記の正式称号
インペラートル・カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス
ゲルマニ二クス ゲルマン人を制服
サルマティクス サルマタイ人を制服
インペラートル 将軍万歳10回
関連
- 15代→アントニヌス・ピウス(前)
- 17代→コンモドゥス(次)
マルクス名のスペル表記
マルクス・アウレリウス・アントニウス 少し違う