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乃木希典の編集履歴

2012-10-21 19:21:49 バージョン

乃木希典

のぎまれすけ

明治時代の軍人。陸軍大将。石樵・静堂・石林子などと号した。

幕末から明治時代に描けての日本武士陸軍軍人教育者


嘉永2年11月11日(西暦1849年陽暦12月25日)、江戸六本木の長府藩(長州藩毛利家の支藩)上屋敷で生まれる。

慶応2年(1866年)に騎兵隊に合して幕府軍と戦う。


明治維新後、陸軍に入って軍歴を重ね、西南戦争(明治10年)にも従軍した。


ドイツ留学を経て、日清戦争(明治27~28年)では歩兵第一旅団長として善戦、陸軍中将となり、つづく日露戦争(明治37~38年)においては第三軍司令官として出征し、大陸上陸直後に陸軍大将に任ぜられた。

しかし旅順の攻略には非常な苦戦を強いられ、多大の犠牲を払ってこれを陥落させている。

この戦争では彼自身、南山の戦いで長男勝典を、二〇三高地の激戦で次男保典を失った。

降伏した将軍ステッセル水師営で会見、ステッセルが悔やみの言葉を述べると、希典は「これぞ武門の面目」と答えたと言う。


戦後、宮内省御用掛学習院院長に就任。

学習院に入学しされた皇孫裕仁親王(後の昭和天皇)の御養育にも関わっている。


大正元年9月13日夜、7月30日に崩御した明治天皇の大葬の夜、夫人と共に殉死した。満62歳没。


文武両道に優れた彼の事跡は唱歌や講談で伝えられ、国民的英雄として尊敬された。

また、ダグラス・マッカーサーは「日本は乃木将軍のような立派な人物が出る国なのだから、必ずまた発展するだろう」と語っている。


また後には、とある偏った作家のせいで無駄死にを多数出したド無能扱いされてきたが、近年旅順攻略戦に関する研究が進むにつれて修正がされてきている。


東京都港区赤坂他各地に鎮座する乃木神社の祭神となっている。


乃木大将の肉声

私は乃木希典であります


関連タグ

乃木 乃木坂 児玉源太郎

坂の上の雲:乃木愚将説の現代における根源。

讃岐うどん:第11師団長(香川県善通寺町、現善通寺市)時代に部隊食に取り入れ普及のきっかけを作ったという説がある。

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