嘉永2年11月11日(西暦1849年陽暦12月25日)、江戸六本木の長府藩(長州藩毛利家の支藩)上屋敷で生まれる。
明治維新後、陸軍に入って軍歴を重ね、西南戦争(明治10年)にも従軍した。
ドイツ留学を経て、日清戦争(明治27~28年)では歩兵第一旅団長として善戦、陸軍中将となり、つづく日露戦争(明治37~38年)においては第三軍司令官として出征し、大陸上陸直後に陸軍大将に任ぜられた。
しかし旅順の攻略には非常な苦戦を強いられ、多大の犠牲を払ってこれを陥落させている。
この戦争では彼自身、南山の戦いで長男勝典を、二〇三高地の激戦で次男保典を失った。
降伏した将軍ステッセルと水師営で会見、ステッセルが悔やみの言葉を述べると、希典は「これぞ武門の面目」と答えたと言う。
学習院に入学しされた皇孫裕仁親王(後の昭和天皇)の御養育にも関わっている。
大正元年9月13日夜、7月30日に崩御した明治天皇の大葬の夜、夫人と共に殉死した。満62歳没。
文武両道に優れた彼の事跡は唱歌や講談で伝えられ、国民的英雄として尊敬された。
また、ダグラス・マッカーサーは「日本は乃木将軍のような立派な人物が出る国なのだから、必ずまた発展するだろう」と語っている。
また後には、とある偏った作家のせいで無駄死にを多数出したド無能扱いされてきたが、近年旅順攻略戦に関する研究が進むにつれて修正がされてきている。
乃木大将の肉声
「私は乃木希典であります」
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坂の上の雲:乃木愚将説の現代における根源。