九五式戦闘機の後継
1936年(昭和11年)、日本陸軍は次期主力戦闘機として「低翼単座戦闘機」の開発を命じた。
命じられたのは中島(キ27)、川崎(キ28)、三菱(キ33)の3社で、
1937年2月これらの競争試作となった。
しかし三菱は早々に競争から離脱し、
(九五式戦闘機試作の際のイザコザも要因)
川崎と中島が直接対決する事となったのだが、川崎キ28はエンジンの信頼性に問題があったので脱落となり、こうして中島のキ27が採用となったのである。
時は1937年(昭和12年)、皇紀にして2597年。
盧溝橋事件が起こり、中国への介入を一段と進めることになる年である。
陸軍の主力戦闘機
九七式戦闘機は日本陸軍ではじめての単葉機である。
この方式だと揚力が小さくなるので旋回性能は低くなり易いが、
空気抵抗は小さくできるので性能向上には効果的(速度性能など)である。
1938年から実戦に投入され、(日中戦争)
太平洋戦争の頃(1941年~1945年)には既に旧式化していたが、
一式戦闘機や二式単座戦闘機の配備が間に合わなかったので、引き続き実戦に投入された。
既に旧式化していたとは言え、旋回戦闘での強さは相変わらずだったのである。
ただし、新型機の数が揃うようになると前線部隊からは引き揚げられている。
(1942年春以降)
引き揚げられた九七式戦闘機は後方部隊用や訓練用に使われ、
『九七式練習戦闘機』や『二式高等練習機』となっていった。
もちろん高い操縦性などは訓練にはうってつけであり、
九七式の評判
陸軍で多くの「エース」を生み出した機であり、
実際に搭乗したパイロットからは現在でも絶賛されているという。
(『操縦が楽しい』『タマがよく当たる』等)
実戦部隊の評判も非常に良く、とくに旋回戦に慣れたパイロット達に好評である。
中でも射撃の安定性も絶賛もので、良く当たるので『空の狙撃兵』とも呼ばれている。
ただし旋回性能と引き換えに急降下は苦手であり、
とくにノモンハンでI-16戦闘機が一撃離脱戦法を使うようになってからは苦戦している。
防弾板が無かった事も戦死・戦傷を増やした要因であり、
一式戦闘機では防弾版が着脱式、二式単座戦闘機は標準装備となって、以降は防弾にも考慮されるようになっている。
また7.7mm機銃が2門だけという火力にも、不満が寄せられるようになった。
以降は諸外国の戦闘機も防弾されるのが普通になったのだ。
7.7mmでは弾丸が小さくて威力がなく、防弾版を貫通できなかったのである。
末期にはもちろん「特攻機」として使われたが、
爆弾(250kg)が重すぎるのでエンジントラブルが頻発したという。
(他にも離陸滑走が難しくなる等の不都合があった)
福岡県の大刀洗平和祈念館は唯一、九七式戦闘機が展示されている施設である。
この機は上述の経緯でエンジントラブルを起し、博多湾に不時着水した機体を展示している。